生まれた子供につける名前は「人生最初のプレゼント」なんて話をよく聞きます。
しかしそれは親の都合であって、子供本人にとってつけられた名前がよいか悪いかはまた別の話し。
今回は鎌倉時代の仏教説話集『沙石集(させきしゅう)』より、とある僧侶のエピソードを紹介したいと思います。
「我が子じゃない」「我が子かも」「我が子で文句なし」今は昔し、信州(現:長野県)のある山寺に上人(しょうにん)様がおりました。
上人なんて呼ばれるくらいですから、さぞや素晴らしい知恵と立派な功徳を積まれたことでしょうが、この上人様は三人の妻にそれぞれ子供を産ませたと言います。
もしかしたら、智恵と功徳の定義を問い直さねばならぬやも知れません。
ゴホン……まぁ仏縁あって生を賜わった以上、名前をつけてやらねば……とばかり、母親たちが我が子を抱えてやって来ました。
「この子を認知して下さいな」赤子を連れて来た母親(イメージ)
「「「上人様のお子ですから、どうか立派な名前(≒認知と養育費)をお願いします」」」
最初の妻とは、それほどねんごろにしていた記憶がありません。なので上人は最初の子には
「思ヨラズ(おもいよらず)」
と名づけました。「これが我が子だって?思いもよらないな」という意味です。
次の妻は、まぁちょくちょく会って睦び合っていました。