織田信長との出会い
茶の湯の完成者として名高い千利休ですが、最期は主君である豊臣秀吉から切腹を命じられました。
千利休像 (長谷川等伯画、春屋宗園賛・Wikipediaより)
これはもちろん公権力による処刑ですが、しかし彼がなぜそのような形で処刑されるに至ったのか、その理由は定かではありません。どうも豊臣秀吉の晩年の言動は「理由が分からない」ものばかりで、歴史家の悩みの種でもあります。
千利休が切腹を命じられた理由を探るには、まずは商人・文化人だった彼がいかにして権力者として成り上がっていったか、その経緯を辿る必要があります。
千利休は大永2(1522)年、和泉国堺(現在の大阪府堺市)の商人である田中与兵衛の子として誕生しました。本名は田中与四郎で、のちに法名を宗易(そうえき)と号しています。
彼は父の跡を継ぐための手段のひとつとして17歳で茶道を始めますが、その奥深さにすっかり魅了されてしまい、実家を継ぐことを辞めて茶の道に専念するようになります。
そして23歳で初めての茶会を開き見事成功させ、徐々にその名が知られていきます。彼が織田信長との邂逅を果たしたのはこの頃です。
「茶の湯」を通して権力者に当時の信長は、商業の中心地である堺を何としても直轄地にしたいと考えており、武力侵攻を試みます。最初は抵抗していた堺の商人達も、最終的にはその保護下に入りました。