不自然な通説
豊臣政権の2代関白・豊臣秀次の切腹は紛れもない史実です。
その1週間前の文禄4年(1595年)7月8日、従者数人を連れた秀次は京都の聚楽第から南郊・伏見城に秀吉を訪ね、その足で紀伊山地の高野山に行きました。
そしてその地で剃髪した後、15日に自害したのです。
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悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか?この自害についての従来の説は、第1子の鶴松を失った秀吉が甥の秀次を養子にして関白職を譲ったものの、第2子の御拾(秀頼)が生まれたため邪魔になったのが理由だと言われてきました。それで秀次を高野山に追放し、切腹させたというものです。
切腹の知らせを受けた政権は、秀次の悪行を各方面に伝えています。関白の職が血で汚され、朝廷も嫌悪したのでしょう。秀頼への関白継承は困難になり、政権は不安定化しました。
ただ、この説には疑問も残ります。