無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相 (2/4ページ)
秀次が切腹したのは高野山の青巌(金剛峯寺の前身)ですが、ここは秀吉が母・大政所の菩提を弔うために寄進した大寺院でした。そのような大切な場所で、秀吉が切腹を命じるのは不自然です。
そこで注目されるのが、これまで見過ごされてきた「秀次高野山」令です。
秀次一行が高野山へと出発した後、同22日に発給された秀吉の朱印状で、宛先は高野山の真言宗トップと高野山の全体です。これは、秀次を高野山に留め置くという軟禁の命令で、当時の写しも残っています。
一方、これまで多くの歴史学者が参照してきたのは、江戸時代初期の軍記物『甫庵太閤記』に記載された同13日付の連署状です。これは石田三成ら「五人の者」によるもので、秀次の切腹を命じる内容でした。
このどちらかを携えて、福原長堯らの使者が伏見から高野山へ向かい、彼らの到着を受けて秀次は切腹したことになります。
伏見から高野山までの距離を考えると、わずか1日の差でも、三成らの連署状が作成されるのを待っていたら秀次の切腹に間に合いません。
従って、使者らが携えたのは軟禁命令の朱印状の方だったと考えられます。切腹命令の連署状は『甫庵太閤記』にだけ出てくる史料であり、フィクションの可能性もあります。
切腹の理由では、なぜ秀次は切腹したのでしょうか?
実は、手掛かりがあります。