【原爆】日本人3万人の被爆者を救ったスイス人マルセル医師 / 原爆投下1か月後に広島へ (2/2ページ)

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・治療で2万人から3万人の命が救われた
通訳を務めた丸山幹正氏(後に『ドクター・ジュノーの戦い』という伝記を出版)によると、広島で精力的に治療活動を行いました。当時、広島では大勢の被爆者が治療を必要としていましたが、「治療で2万人から3万人の命が救われた」(丸山氏)。

・任務外の活動で人命救助をマッカーサーに直談判
興味深いのは、国際赤十字委員会の任務として、こうした被爆者の治療は想定されていなかった事でしょう。元々来日したのも、当時の日本国内の連合軍捕虜の処遇実態を調査するのが目的だったからです。ちなみに、東京着が1945年8月9日。

・降伏後に進駐したGHQと直談判
事態を知ったジュノーは同僚と共に、降伏後に進駐したGHQと直談判。医療とロジスティックスが必要だとダグラス・マッカーサーを説き伏せます。本国に、広島の凄まじい惨状を電報で知らせてもいます。

・組織のオーガナイジング
マッカーサーは、ジュノーに15トンの医療物資の供給します。空輸しながら治療活動を支援する事も約束します。日本人の放射線医師や、アメリカ人の医師を連れて広島入りするなど、組織のオーガナイジングをする力にも長けていた人でした。

・回想
息子のベノイト・ジュノーさんは、後にこう回想しています。「父は5日間、広島にいました。本当に混沌としていた中で、被爆者の治療を直に行ったのです」。

・今となっては想像がつかないほど
日本赤十字社のKiyoshi Eouchi氏も「こうした膨大な量の医療物資が、生き残った人達にどれだけの希望となったかは、今となっては想像がつかないほどです」と、絶賛しています。

・帰国後に原爆の恐ろしさを本に綴る
1946年に帰国後、広島での惨状を証言しようと、執筆に取りかかります。翌年に出版。ベノイトさんによると、広島の原爆がもたらした影響について書籍として最初に触れたのはマルセルだったろうとの事です。

「当時のアメリカは、この問題を検閲していました。アメリカで最初に報道したのはジョン・ハーシーというジャーナリストでしたが、1946年9月でした」(ベノイトさん)。中立国のスイスでこそ出版可能だったのでしょうね。

・功績は記憶に留められて然るべき
国際赤十字委員会では、ジュノーの人道援助のパイオニアとして戦地で活躍した功績は記憶に留められて然るべきだとしています。

「極端なまでに仕事に打ち込む人でした。国際赤十字社には、一時的に参加するだけだったのが、一生の仕事となったからです」と話すのは、国際赤十字社で国際法とコミュニケーションの担当責任者であるフランシス・バグニオン氏。「彼の行動が、今日の医師団派遣のモデルになったのです。我々の医師団には、あらゆる意味でジュノーの精神が宿っているのです」

・広島平和記念公園に顕彰碑
1961年6月16日、心臓発作で世を去りますが、こうした活躍を称え、1979年には広島平和記念公園に顕彰碑が建てられたほどです。また、1990年から毎年6月に追悼式展が行われています。

・帰還調整委員会にオブザーバー
今回は70周年という事もあって、この顕彰碑を基にした記念碑のお披露目式が行われたそうです。なお、ウィキペディア日本語版によると、在日朝鮮人の帰還事業に関連し、赤十字国際委員会から日本への使節として、8月23日に来日した。岸信介首相、藤山愛一郎外相らと会見。日本政府の帰還調整委員会にオブザーバーとして出席するなど、約1ヶ月間日本での業務にあたったとあります。

となれば、安倍首相がいつの日かスイス入りしたら、この顕彰碑に献花しても良いのではないのでしょうか。

https://youtu.be/7OCkNa41A6g

執筆: 武将ジャパン

もっと詳しく読む: バズプラスニュース Buzz+ http://buzz-plus.com/article/2015/08/31/marcel-junod/

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