ノーベル賞候補にも! 「抗生物質」は日本の発明だって本当?

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冬に増えるのが「病気」の話題。病院の注射やクスリが良く効くのは抗生物質(こうせいぶっしつ)のおかげですが、発明したのは日本の学者なのはご存じでしょうか?

抗生物質の生みの親は明治時代の医学博士、秦佐八郎(はたさはちろう)。ペスト予防の実績を買われてドイツの研究所に招かれた秦は、ドイツのエールリッヒ博士の共同研究によって梅毒をやっつける薬を発明、猛毒で知られるヒ素を使って菌を退治する世界初の抗生物質を発明しました。ただしノーベル賞候補に挙がるも残念ながら受賞にはならず、名前を知らないひとも多いでしょうが、現在われわれが健康に過ごせるのも、秦博士の研究があってこそなのです。

■日本をペストから守った男

カゼをひいたけど病院に行く時間がない、冬になるとよく聞く話です。市販のクスリを飲んでも治らず、結局病院に行くはめに…処方されたクスリですぐ回復した!なんてパターンがお約束なのも、ひとえに抗生物質(こうせいぶっしつ)のおかげで、

 ・市販の薬 … 痛みなどの症状を和らげる

 ・病院の薬 … 原因となる菌などをやっつける

の違いがあり、処方薬は抗生物質が「病気」に直接作用するのに対し、市販のものは自分で治す治癒(ちゆ)能力を助けるだけのものがほとんどです。後者の場合、幼児や高齢者のように体力がないひとや、人間が持つ抗体では治せない病気には対応できないため、過去には伝染病で多くの命が奪われていました。この歴史を変えた人物が秦佐八郎(はたさはちろう)なのです。

明治6年、島根の農家に生まれた秦は、14歳のときに村の医者の養子に迎えられ、その後は家業をつぐために医学を学び、大学を卒業すると病院の助手として働きました。このとき出会った荒木寅三郎に見込まれ、伝染病の権威である北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)の研究所に勤務、当時は正体がわからなかったペストの予防に尽力し、日本でのペスト流行を阻止しました。これが国内外で評判となり、ドイツのコッホ研究所に留学することになるのです。

コッホは「細菌学の祖」とも言われる存在ですから、この分野では世界一の研究機関。ドイツの医学薬学は世界イチィィ!と叫んだかは不明ですが、秦の研究が世界的に認められた証明と言えるでしょう。

■606回目の大逆転

その後の秦はエールリッヒ博士とともに梅毒(ばいどく)の治療薬の開発に取り組みます。梅毒は梅毒トレポネーマという菌が原因で、皮膚や粘膜から他人にうつる感染症ですが、感染しても3週間ほどで症状が和らぎ「治った」と勘違いしてしまうやっかいな病気。当時は治療方法が確立していなかったため、多くのひとが犠牲になっていました。そのため、エールリッヒ博士は治療薬の研究にいそしみ、秦を招いて共同研究をおこなったのです。

1909年ついに梅毒治療薬・606号が完成、翌年には製薬会社が「サルバルサン」の名で量産し、世界中で治療に使われるようになりました。「606号」は試作品の番号を意味し、つまり606回目にやっと成功したのですから、大変長い道のりだったことがうかがい知れます。それもそのはずで、おもな成分である「ヒ素」は人体にも有害な物質だったからです。

研究成果が認められ、エールリッヒ博士は1908年にノーベル生理・医学賞を受賞、秦も後年の候補に挙がるものの残念ながら受賞には至りませんでしたが、日本結核予防協会や恩師である北里研究所の設立に携わり、研究者としての人生を過ごします。606号も現在はペニシリンが主流となりましたが、秦が発見した抗生物質があってこそ、安心して暮らせる時代になったのです。

■まとめ

 ・抗生物質を最初に発見したのは、秦佐八郎とエールリッヒ博士

 ・梅毒の治療薬を作るのが目的

 ・古代から毒として使われていた「ヒ素」を利用

 ・ノーベル賞候補になったが、残念ながら受賞しなかった

(関口 寿/ガリレオワークス)

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