真田丸で話題の……「真田幸村」は存在しないってほんと?

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ゲームでも人気の戦国武将。誰もが知っている人物なのに、史実には登場しないひとがいるのはご存じでしょうか?

最近ドラマで盛り上がっている「真田幸村」が信繁(のぶしげ)と表記されるのは、子どものときの名前ではなく、これが本当の名。「幸村」は江戸時代の小説で「勝手」につけられただけで、史料にも、自筆の書類にも、真田幸村という人物は存在しません。関ヶ原の戦いでは兄と敵対、豊臣側について破れたあとは謹慎生活を送るなど、苦労の絶えない人物だったのです。

■誰も知らない「真田幸村」

ドラマで話題となっている真田幸村は、歴史好きじゃないひとでも名前は聞いたことがあるでしょう。真田信繁(幸村)と紹介され、おとなになったら幸村に変わる? と思っているひともいるでしょうが、残念ながら幸村は本名でもなければ「あだ名」でもありません。つまり「真田幸村」は歴史上存在しない武将なのです。

むかしの日本では「幼名」があり、いまの成人式に相当する元服(げんぷく)を境に名前を変えるのが一般的で、著名な人物では、

 ・徳川家康 … 竹千代

 ・豊臣秀吉 … 日吉丸

 ・伊藤博文 … 利助

など、明治9年に改名が禁止されるまでは当たり前のようにおこなわれていました。ところが真田幸村の幼名は弁丸で、おとなになってからは信繁。幸村の名はまったく使われず、いったいダレの名前ですか? 状態なのです。

そもそも真田信繁の記録には不明点も多く、名前についても諸説ありますが、史料にも書状にも幸村の名は登場せず、使っていない説が有力。それでも幸村で知られるようになったのは江戸時代の小説「難波(なにわ)戦記」がきっかけ、本人も知らないところで「幸村」と呼ばれるようになったのです。

著名な小説にも幸村と記されたものは多くありますが、小説ですから目くじらを立てる必要はないでしょう。ただし歴史的に存在するのは信繁で、真田幸村は架空の人物、と表現すべきでしょう。

■「大くたびれ」でも精力的

真田信繁は、どんな生涯を過ごしたのでしょうか? 徳川家康を苦しめた人物、敵を威圧する赤備(ぞな)えは広く知られていますが、実際はかなりの苦労人。関ヶ原の戦いでは兄と敵対、その後の謹慎生活では「歯も抜け、ヒゲも白くなった」と記すほど気苦労の絶えないひとだったのです。

豊臣側の石田三成 vs 徳川家康が関ヶ原の戦いなのはご存じの通りで、このとき幸村の父・昌幸も健在、本来なら兄・信幸と3人で「真田家」として活動すべき局面でした。ところが父は石田家、兄は徳川家から妻を迎えていたため泣く泣く対立。この状況で父・昌幸は「どっちが負けても真田家は残る」と言ったとか言わないとか… 信繁は徳川の別働隊を足止めしていたため、関ヶ原で兄と対決せずに済みましたが、「本当に家族?」と疑いたくなるような非情な経験をしているのです。

徳川が勝利をおさめ、敵側についた昌幸/信繁は処刑が当然でしたが、兄・信幸の懇願によって一命を取り留め、九度山で謹慎生活を命じられます。それからは暮らしが楽なはずもなく、希望が持てる生活でもありません。父・昌幸が死去すると家臣も離れ、最後は2~3人しか残らなかったと記録されています。信繁はこの生活を「大くたびれ」と表現し、

 ・最近めっきり老け込み、病気がちになった

 ・歯も抜け、ひげもほとんど白くなった

と嘆いたことからも、よほど生活が苦しかったことがうかがえます。

とはいえ、この間に2男・3女に恵まれていたのですから、老け込んだのか精力的なのかわかりませんね。その後の戦にも参戦したことからも「元気」なひとだったことは確かなようです。

■まとめ

 ・真田幸村の本名は信繁。幸村の名は史料に登場しない

 ・幸村の名で呼ばれるようになったのは、後に出版された小説がきっかけ

 ・豊臣側についた父と信繁は、謹慎生活を余儀なくされた

 ・謹慎生活を「大くたびれ」と表現しながら、5人のこどもをもうけた「元気」なひと

(関口 寿/ガリレオワークス)

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