"愚連隊の王者"安藤昇氏逝く...波乱万丈の生涯とは (3/3ページ)
『宵の銀座に銃声一発~ 横井英樹氏撃たれる~』
翌日の新聞では、横井英樹襲撃事件を各社が一面で報じた。狙撃は成功したが横井は一命をとりとめ、さまざまな事情から安藤氏は逃亡を決意する。司法に対し徹底抗戦を宣言した安藤氏に、警視庁は『下山事件』(1949 年=昭和24年)以来の大捜査網を布き、大々的な規模でローラー作戦が実施された。さすがの安藤氏も逃げきれず、35日間の逃亡生活のすえ逮捕。殺人未遂で起訴された安藤氏に、下された判決は懲役8年。検察側の求刑は12年だった。
「勝てば監獄、負ければ地獄」
かねてからの自身の口癖どおり、1961年(昭和36年)安藤氏は前橋刑務所に下獄した。出所後は渋谷に戻り、しばらくはヤクザ稼業を続けたが、抗争により多くの組員の命を奪ったことを自らの責任と感じ、1964年(昭和39年)安藤組を解散させている。それからが圧巻であった。
翌1965年(昭和40年)、自らの自叙伝を映画化した『血と掟』に主演し大ヒットを記録する。なんと、世間を震撼せしめたヤクザの組長が、松竹から映画俳優としてデビューしたのである。契約金2千万円、1本当たりの出演料が当時の最高額の500万円という破格の扱いであった。その後、東映に移籍し、数々の名作に出演する。ヤクザ界のスターから、銀幕のスターへの華麗なる転身であった。
このように、まるで映画かドラマのような人生を送った安藤氏であるが、これらはうそ偽りない真実で世間も周知の事実である。
終戦直後の動乱期、 旧態然とした古きヤクザの体制を破り、新しいヤクザとして群雄割拠する渋谷に燦然たる輝きを放った安藤組。幼少時から壮年に至るまで、あまりにも苛烈で壮絶な人生を過ごした、安藤昇。晩年は安穏とした余生を送っている。
昭和が生んだ稀代の英傑・安藤昇......その死に、合掌。(文中敬称略)
http://n-knuckles.com/street/img/ando02.jpg文・写真/影野臣直
※1959年、大阪市出身。大学入学のため上京。在学中に歌舞伎町で、キャッチバーを始める。以後、ボッタクリ一筋20年。男女キャッチ併せ100有余名の、歌舞伎町最大のボッタクリチェーン、「Kグループ」を築き上げる。1999年、「梅酒一杯15万円」事件で逮捕。懲役4年6ヶ月の実刑判決を受け、新潟刑務所に服役。2000年11月、『ぼったくり防止条例』施行により、グループ解散。2002年、刑期を一年残し、仮出獄。以後、裏社会の幅広い人脈を生かし、歌舞伎町ネゴシエーターとして活躍。現在は作家に転身。裏社会コーディネーターとして活躍。著書に「刑務所(ムショ)で泣くヤツ、笑うヤツ」「歌舞伎町ネゴシエーター」「歌舞伎町ぼったくり懺悔録」など。