総額1兆2500億円!? 薩摩藩は「250年ローン」をふみ倒したってほんと? (1/2ページ)

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明治維新の立役者「薩摩藩」。名君・第11代藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)の活躍によって、幕末の主役に躍り出ます。彼は、西郷隆盛や大久保利通を育てた上に、あの篤姫の養父でもありました。

この斉彬を幼いころから高く評価し、ドイツ人医師のシーボルトにも合わせたのが、第8代藩主であり曾祖父の島津重豪(しげひで)です。彼こそ、薩摩藩が天文学的な借金を抱える原因を作った張本人。しかし、調所笑左衛門(ずしょ しょうざえもん)というデキる右腕を登用し、最終的にしれっと帳消しにしてしまったのでした。

■明治維新への下地を作った藩主

「薩摩に暗君なし」という言葉があります。びっくりするような変わり者ぞろいの将軍家とは一線を画すレベルの藩主が、実権を握り続けてきたのです。

そのなかでも重豪は、抜きんでて野心に溢れていました。当時、ときの権力者は田沼意次。開放的で改革に積極的な風潮に乗って、重豪は藩の改革へ踏み出しました。戦のない江戸時代、武士は官僚や役人のような立場に変化していきました。薩摩藩の人口のおよそ4分の1が武士です (ちなみに、全国の武士のおよそ1割が薩摩藩士でした)。彼らは、城下町に収容しきれないという名目で、麓と呼ばれるミニ城下町に置かれていました。もとは外敵から守るための軍事的存在でしたが、重豪は役人として扱い、行政的存在へと変えていったのです。

それと同時に、「薩摩の方言や服装は野蛮だ。上方の風俗を見習うべし」と言って、見ためやなまりの矯正をし、さらには上方から遊女を積極的に薩摩へ呼びました。こうして、どこへ出しても恥ずかしくない知識や教養を身につけさせたのです。教育についても、学問所である藩校・演武館、造士館など次々と造り、書籍や機械など海外の文物をどんどん買い集めました。

さらには徳川11代将軍家斉(いえなり)に重豪の娘を嫁がせます。そのほかにも多くの子供や孫を、有力大名の養子や妻の座へ送り込んでいったのです。

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