【プロ野球】日本ハム最後の20勝投手”工藤幹夫伝説”を振り返る (1/2ページ)

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大沢親分が信頼した男! 日本ハム最後の20勝投手「工藤幹夫伝説」を振り返る
大沢親分が信頼した男! 日本ハム最後の20勝投手「工藤幹夫伝説」を振り返る

 東北が生んだ“知る人ぞ知る野球人”のひとり、元日本ハム投手、工藤幹夫氏が5月13日、秋田市内の病院で亡くなった。55歳の若さだった。

 工藤氏は秋田県出身。本荘高校から1978年のドラフト2位で日本ハムに入団。ハイライトは、何といっても1982年に20勝を挙げ、最多勝、最高勝率、ベストナインに輝いたことだろう。

 だが、この年以外はペナントレースで目立った成績は残していない。そのため、熱心な日本ハムファン以外は、今回の訃報で初めてその名を知った、という人もいるかもしれない。

 なぜ、1シーズンだけの輝きだったのか。工藤投手の一瞬の輝きの裏にあった背景を振り返ってみたい。

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■シーズン2勝投手が日本シリーズで2勝

 もともとはアンダースローの投手だった工藤氏。だが、プロ入り後の1981年、サイドスローに転向したことが大きな転機となった。この年、イースタン・リーグで13勝4敗1セーブという好成績を残し(※ファーム最多勝)、シーズン途中から1軍に昇格。ペナントレースで2勝を挙げた。

 同年、日本ハムはパ・リーグを制して日本シリーズに進出。2勝4敗で巨人に敗れてしまうが、その2勝はいずれも救援した工藤氏についたもの。翌シーズンにブレイクする予兆ともいえた。

■大沢親分の奇襲大作戦

 むかえた1982年、工藤氏は開幕から絶好調。前期10勝3敗、後期10勝1敗で20勝を達成した。しかも、9月8日に右手小指を骨折して離脱したため、シーズン半ばでの20勝という、価値あるものだった。

 ところが、骨折から1カ月後の10月9日、西武とのプレーオフ第1戦で、工藤氏がまさかの先発登板。もちろん、ケガはまだ治っていなかった。

 なぜ、そんな無理をさせたのか。それは、当時の日本ハム・大沢啓二監督の「骨折の工藤は投げるはずがない」という相手予想を踏まえた上での奇襲作戦だった。

 結果的に、プレーオフ第1戦は黒星で奇襲失敗。工藤氏は期待に応えて6回終了まで無失点の好投を見せたが、後続ピッチャーが打たれてしまったのだ。

 もっとも、奇襲はこれで終わらなかった。“大沢親分”はプレーオフ第3戦でも工藤氏を先発起用し、今度は完投で見事に勝利投手となったのだ。だが、日本ハムは他の試合に勝つことができず、1勝3敗で日本シリーズ進出は叶わなかった。

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