【プロ野球】《引退選手のドラフトをプレイバック》ファンに勇気を与え、ファンに支えられたハマの番長・三浦大輔

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ファンに勇気を与え、ファンに支えられたハマの番長・三浦大輔
ファンに勇気を与え、ファンに支えられたハマの番長・三浦大輔

■ファンを思って涙を流す

 9月20日、DeNAの三浦大輔が横浜市内のホテルで記者会見を開き、引退を表明した。

 本人のあいさつ、高田繁GMの経緯説明に続き、メディアに対しての質疑応答が行われたが、引退を決断したことで吹っ切れたのか、終始表情は明るかった。

 しかし、唯一、言葉に詰まったのが、ファンに対するメッセージを求められた場面だ。

「自分も寂しいです。まだまだ離れたくないですし、いろんなことがファンの方との間にありすぎて、ぼくもつらい。ずっと横浜のユニフォームを着て投げたいという気持ちがあります。でも、いつか、現役を引退しないといけない、誰もが通る道だと思うので、ぼくもつらいです。今年だけでなく、もっと前にもつらいこといっぱいありました。これまでも、引退かな、やめないといけないかな、と思うときもいっぱいありました。2軍で、1軍の試合のテレビを見ていたときも……」

 ここまで話したところで、こらえきれずに言葉を詰まらせる三浦。声にならない声で「すいません……」と2度。この間、約15秒の沈黙。そして、なんとか声をしぼり出す。

「……18番のユニフォームを着て、スタンドで応援してくれているファンをテレビで見たら、絶対あのマウンドに戻るんだ、って。そう思って、頑張ってこれました。それだけ、三浦大輔に力を与えてくれましたし、応援があったからここまでやってこれたと思います」

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■ファンとの適度な距離

 また、最も印象に残った勝ち星を聞かれ、悩みながらも節目の150勝目を挙げた。

「ぼく自身、すごくうれしかったんですが、それ以上にファンの方が喜んでいて、それを見てまたぼくも喜んでいたな、という印象が強かったので思い出に残っています」

 2008年にFA宣言し、阪神に移籍の可能性が大きく報じられるも、結局、横浜に残った三浦。「強いところを倒して優勝したい」ということを一番の理由に挙げていたが、あのときの横浜ファンの三浦残留への熱意はすごかった。三浦の決断にも大きな影響を与えたに違いない。

 野球選手に限らず、ファンがいるような職業の、その距離の取り方は非常に難しい。近すぎず遠すぎず、三浦とファンの距離は理想的だったのではないか。

■今季開幕時点で国内最年長選手

 三浦は1991年のドラフト6位で、当時の大洋ホエールズに入団。奈良県の高田商高という野球的にはほぼ無名の高校の出身で、その指名順位からわかるように、そこまで大きな期待はかけられていなかったのだろう。

 同期入団には、イチロー(オリックス4位、愛工大名電高)、金本知憲(広島4位、東北福祉大)、石井一久(ヤクルト1位、東京学館浦安高)、斎藤隆(大洋1位、東北福祉大)らがいるが、今季の開幕時点では、三浦がすでに国内最年長選手だった。

 現役25年間で、通算成績は535試合172勝184敗。チームの低迷期が長かっただけに、他のチームならとっくに200勝を突破していた、という声もある。

 ただ、それはまさに机上の空論。仮に阪神に入団していたとしても、ファンの気質も違うなか、三浦自身が横浜時代と同じパフォーマンスを発揮できていた保障はない。やはり、ハマの番長は横浜だからこそ輝いていたのだ。

 9月29日の最終登板では、7回途中までで10失点と打ち込まれたが、なまじ好投するよりはよかったかもしれない。これで、未練なく現役を終えられたことだろう。

■まだまだ背番号18を見ていたい

 なお、エースナンバーでもあり、三浦が7年目のシーズンから背負ってきた18番は「横浜ナンバー」として、ふさわしい選手が現われたときに球団と三浦本人を交えて協議するとのこと。それまでは欠番となる。

 3年前から兼任コーチという立場であり、10月9日から東京ドームで行われるクライマックスシリーズのファーストステージでも、マウンドに立つことはなくてもチームとともに戦う。

 1日でも長く背番号18のユニフォームを着た三浦が見られるように、チームメイトもファンも願っているはずだ。

文=藤山剣(ふじやま・けん)

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