もはや流行病。アメリカはいかにしてADHD国家となったのか? (3/5ページ)

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1950年代に初めて定義された”多動性衝動障害(Hyperkinetic Impulse Disorder)”は、のちに”微小脳機能不全”と改名された。

 ”多動性”では範囲が狭すぎ、候補として挙げられていた”注意散漫症候群(Attentional De
viation Syndrome)”では多動性が反映されていなかったためだろう。しかし、”微小”では軽視されがちだったし、政府からの援助も得ずらかった。その名自体が潜在的な患者数を限られたものとし、広く適用できる名称にしたいという精神科医の希望に沿っていなかったのだ。


 1980年、精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)は”注意力欠如障害(ADD)”の名称を採用する。これがごく普通に見られる行動の問題に似ていたことから、急激に診断数が増加していった。

 リタリンの処方も急激に増加し、「1970年代初頭以降、6年で倍増」する。1990年代後半になると「5年間で4倍」というとんでもない伸びを見せた。これはいくつか有名になった訴訟とメディアが処方の緩和を求めていたことが要因である。シュワルツによれば、「1990~1993年にかけて、年間の診断数は90万件から200万件と倍増し、以降も増え続けている」という。

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image credit:newsweek
製薬会社と支援団体が患者数を加速させる

 製薬会社が資金援助する患者の支援団体は、1989年以降巨額の資金援助を非公開で受け取り、「患者を引きつけ、成長を加速」させていた。

 この病気を研究してきた学会のオピニオンリーダーも待ってましたとばかりに診断範囲の拡大に賛成した。かつては閑古鳥だった待合室には大勢が押し寄せ、精神科医は嬉々として処方箋を書いた。メディアは副作用がほとんどない驚異の薬だと報道し、子供の成績を落としたくない両親らを急かした。

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