葬儀には欠かせない「骨壷」を作っておくという終活もありかもしれない (2/3ページ)
しかもそれらの美しさや芸術的価値の高さゆえ、常に古代の墓泥棒に狙われ、盗掘された壷は好事家の間で、高値で取引されてもいたという。
日本においては言うまでもなく、多くの絵が描かれ、土器や陶磁器などが作られてもいたが、葬送儀礼の伝統の中で、葬儀の様子や墓参の人々を描いた壷を副葬品としたり、或いは墓標などの装飾品として用いたことはなかった。葬儀で「壷」と言えば、遺骨を納める「骨壷」しか存在しない。
■作家の水上勉は骨壷を作っていた
話は飛ぶが、『雁の寺』『飢餓海峡』などで知られる作家の水上勉は、幼少期から青年期のおよそ9年間、臨済宗の禅寺で修行していた。そのときに目にしていた骨壷に関し、「量産品の顔」、「つまらぬもの」、「簡素きわまりなくて、味のない白灰一色の代物」、「透明釉薬で艶光りしているもの」ばかりで、到底、鑑賞に耐えるものでないと感じていたという。
しかし水上は、1960年代半ばに、評論家の小林秀雄に同行して沖縄を旅した折に、「金銀の色もかけられた、みごとな釉薬」、「白地に紺で龍王を描いたもの」、「朱もまじって、南国の花が何か大きな蛇の舌みたいにからんでいる絵柄」など、多くの骨壷を目にした。またその同時期に、韓国・慶州の美術館か博物館の図録に掲載されていた、「文福茶釜のようなもの」、「龍宮の屋根みたいな豪華絢爛といえる七色の釉薬を使った磁器」に触れた際、「人生の終着駅を大切に考えている民族に羨しさ」を覚えたという。
そんな水上はあるとき、ふるさとの福井県・若狭の谷をゴム長靴で歩いていた。そこで靴底にねっとりついて来る赤土に気がついた。ちょうど水上はリューマチを患っていたため、主治医から、リハビリがてら陶芸でもやって、手ひねりで茶碗をつくって遊びなさい、とアドバイスを受けていたこともあり、同じく作家の志賀直哉が有名な陶芸家・浜田庄司の作品を自らの骨壷にしたこと、そして、「なぜに、苦労多い人生を果てたのに、オリジナルな壷に入って楽しまないのだろうか」と思いながら、自ら骨壷を作り始めたのである。とはいえ水上にとっての骨壷は、厳粛なもの、或いは「芸術作品」というよりは、あくまでも、「梅干や砂糖を入れるに適した物」「台所のどこにおいても、手をのばしたいような容器」を思い描いたものだったという。