東京・広尾にある祥雲寺に13家もの大名家の墓がある理由 (1/2ページ)

心に残る家族葬

東京・広尾にある祥雲寺に13家もの大名家の墓がある理由

1623年、福岡藩主の黒田忠之(黒田官兵衛の孫・長政の子息)は、赤坂溜池にあった黒田家の江戸屋敷の敷地に、「興雲寺」という、臨済宗大徳寺派の寺院を建立した。興雲寺は、1629年に麻布台に移り「祥雲寺」と改名した。そして1668年(wikipediaでは1668年、祥雲寺公式サイトは1631年)に、大火で焼失した後広尾に移り、現在に至っている。

■通常、大名家の墓は1家から多くても3家程度

ところで、この祥雲寺には福岡藩主の黒田家だけでなく、合計13家の外様・譜代大名の歴代の墓がある。ところが、近世には、庶民や一般の武家はともかくとして、10家以上の大名が、1軒の寺院に集中して墓を建てるのは、決して一般的ではなかった。

大名家の墓は、1家、せいぜい2〜3家程度の家が、1軒の寺院の敷地に建てるのが一般的であった。大大名といえるような家の場合には、複数の寺院に自分の家の墓を建てるケースもあった。

しかしなぜ、祥雲寺には、これほど多くの大名家の墓が、集中してあるのだろうか。その理由は、江戸時代から近代に、祥雲寺が辿った歴史にある。結論からいうと、この13家の大名家の全てが、正確には、「祥雲寺に」墓を建てているのではなかったのである。

■合併が大きな理由

祥雲寺は、江戸時代を通し、臨済宗大徳寺派の「触頭」の地位にあった。触頭とは、幕府や各藩の寺社奉行の元で、本山と一般寺院の上申下達の仲介を行う寺院で、一定の地域内の寺院を統制する役割であった。

そうした重要な役職の寺院であったこともあり、祥雲寺の住職は、将軍に単独謁見したり、輿で登城したりすることが許されるなど、大名に相当する待遇を受けた。また、歴代の将軍も度々祥雲寺を訪れている。

このように、絶大な勢力を誇っていた祥雲寺には、他の寺院が実質的に合併することもあった。特に、1668年の大火後に祥雲寺が広尾に移転した際、同時に祥雲寺敷地内に移り、祥雲寺と「合併」した寺院は多い。

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