アサヒ芸能「スクープ大事件史」Vol.7(4)日本中をテレビに釘付けにした「あさま山荘事件」

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アサヒ芸能「スクープ大事件史」Vol.7(4)日本中をテレビに釘付けにした「あさま山荘事件」

 翌72年、日本中の耳目を集めたのが「あさま山荘事件」と、その事件を通じて判明した凄惨な「連合赤軍リンチ殺人事件」であった。

 事件の概要を簡単に説明しておこう。

 71年の秋ごろから警視庁による「アパート・ローラー作戦」が展開されたため、連合赤軍のメンバーは都内を追われ、榛名山や妙義山といった関東北部の山岳地帯をアジトとするようになった。そこで武装訓練に励んでいたといわれる。

 そのため、72年2月16日、山梨・埼玉・長野の各県警は大規模な山狩りを行った。すると、不審なライトバンが見つかり……それを機に逮捕されたのが連合赤軍の横浜国大生と慶大生だった。翌日も大規模な捜索は続き、今度は主要メンバーの森恒夫と永田洋子が取り押さえられた。

 そうした動きを察知した他のメンバーは逃走。2月19日から28日にかけてなんと10日間も、長野県軽井沢町にある河合楽器の保養所「あさま山荘」で管理人の妻を人質にとり、武器をもって立て籠もったのだ。やはり連合赤軍の主要メンバー・坂口弘、坂東国男、吉野雅邦ら5人だった。

 この「あさま山荘事件」に関しては、事件後、編集部が極秘に入手した坂口らの供述調書(長野県警作成)から生々しい声が伝わってくる(72年10月26日号)。

〈「あさま山荘」は、斜面を利用した鉄筋3階建ての建物で、玄関は道路に面した3階にあり、そこ以外からは建物に入ることができない。まさに、“天然の要塞”だった。(中略)

 われわれが「あさま山荘」に押し入ったとき、管理人の牟田泰子さん(31)がおり、結果的に人質のようなかたちになったが、泰子さんは一般人で人質にはならないと思っていた。(中略)それだけに、われわれは泰子さんの生命はどんなことをしても5人で守ることを最初に確認したし、途中で逃走しても、銃で殺すようなことをしないつもりでいたほどである。(中略)

 われわれにとって、機動隊は臆病で狡猾で野蛮な敵であるだけに、彼らを見るといっそう闘争心がわき、一部の機動隊員はボケーッとしているので、攻撃して爆弾を投げ込み、混乱にまぎれて、警察の2、3名を捕虜にしてやろうとさえ考えていた。(中略)

 われわれをなやましたのは、水をかけられたことだ。(中略)この放水でマッチがダメになり、まったく火を使えなくなったため、爆弾での攻撃すらできなくなってしまった。(中略)

 われわれは、クレーン車はバリケードの撤去のみと考えていたが、壁を鉄玉でこわしたのには、まったく驚いたし、その破壊力にも驚いた。(中略)第1発の鉄玉が当たったときは、もうだめだと思った。……〉

 かくて10日間の攻防はやっと幕を閉じた。この間、各テレビ局はライブ中継を続けていたので、日本中がオリンピック中継に夢中になるように、ブラウン管に釘付けだった。

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