人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第54回 (1/2ページ)
田中角栄はなぜ、日中国交回復を最優先の政策課題としたのか。その背景には、この年(昭和47年)2月に米大統領のニクソンが、突然、中国・北京を訪問、米中が電撃的な国交を回復したことなどが挙げられるが、最大の理由は田中自身の外交姿勢にあった。
それまでの戦後の日本外交は米国一辺倒、対米追従外交であった。これから何とか脱却できないか、田中は米国と中国を、言うなら“両天秤”に掛ける自主外交を模索したということであった。背景には、単なる時代の流れということではなく、巨大な人口を抱える中国の市場を今後の日本経済を考えれば無視できないということがあった。
しかし、この日中国交回復実現には、いくつかの難問があった。最大の難問は、対台湾問題であった。時に、それまでの日本は、台湾の蒋介石総統の国民党政府をもって中国政府であると承認してきた。ところが、毛沢東主席の北京の中国共産党政権は、日台間の条約を破棄、台湾を切り捨てなければ国交回復はあり得ないという姿勢を鮮明に打ち出していた。
この“台湾切り捨て”には、「親台湾派」の自民党内外から強固な反対の声があった。「怨みに報いるに徳を以てす」として戦争賠償金の請求を放棄した国民党政府を切り捨てるのは、国際信義にもとる、という声に代表された人たちだ。
こうした難問に一役買ったのが、当時の野党、第3代公明党委員長の竹入義勝であった。
当時の田中と公明党は、関係が良好であった。竹入はこの年(昭和47年)7月末、党独自の日中国交回復素案を持って北京を訪れ、周恩来首相と会見した。国交回復を目指す田中の意向の“黒子役”を果たしたことは言うまでもなかった。
このときの会見では、周首相の示した国交回復に当たっての条件に、中国政府としての対日賠償請求権の放棄が表明されていた。竹入は帰国後すぐに田中と会い、周首相との会談内容を詳細に記したメモ、いわゆる「竹入メモ」を渡すと同時に、早期の田中訪中を促した。一方の田中は、直ちに自民党や外務省首脳と検討、日本側提案を作成、党幹部や外務省担当者を北京に派遣するなど予備折衝に入り、結果、田中は歴史的訪中を迎えることになったのだった。
当時の田中の心境を、秘書の佐藤昭子は『私の田中角栄日記』(新潮社)で次のように明らかにしている。