83歳筆者と「Tさん」一家...長く生きて伝える力-伝わること (1/10ページ)

Jタウンネット

画像はイメージです(Sheila Sundさん撮影、Flickrより)
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本コラムの筆者・ぶらいおんさんには、ひとりの友人がいた。台湾で終戦を迎え、「ポツダム一等兵」として中学校に転入してきた「Tさん」とぶらいおんさんは、以来社会に出てからも長い付き合いが続く。

Tさんとその家族との70年来の思い出を振り返り、人と人との「繋がり」そして「伝える力」について考える。

「風の又三郎」のようにやってきた転校生

今回は、どちらかと言えば、個人的な話になるが、或る市井人の1つの生き方を観て頂く、というようなことになるのであろうか。

世の中の人は、その繋がりの中で、お互いに、いずれは或る人と、生死を分ける世界に夫々別々に存在する結果となるのであろうが、それでも、彼らが、たとえ現世と幽冥の界を分けることになろうとも、それは単に、繋がりの次元が異なることになるだけで、繋がり自体が消滅したり、切れたりすることを意味し無い、と筆者は考えて居る。また、事実、筆者自身はその繋がりを常に感じ続けて、生きている。

もう少し、具体的に述べてみよう。

その少年は"風の又三郎"のように、筆者が通っている中学校に転校して来た。

そう、それは昭和22年(1947年)頃のことだった。敗戦から2年、一応、空襲などは無くなっていたが、食糧も、衣服もまだまだ不足していて、十分な状態には程遠かった。

それでも、14、5歳の少年達にとっては、明るく、これから開けて行くであろう限りない未来に向かって胸を膨らませる毎日であった。

我々の中学校というのは、戦時中に青山から東京郊外の大根の産地として知られる、この地に引っ越して来た旧制の都立中学校(筆者が入学した昭和21年)であったが、学制改革により翌昭和22年には新制の都立高校に変わってしまった。

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