人体標本として死後200年弱の間、博物館に展示されたサラ・バートマン (1/2ページ)

心に残る家族葬

人体標本として死後200年弱の間、博物館に展示されたサラ・バートマン

18世紀後半〜20世紀始め頃の時代、当時の「先進国」であった西洋諸国や、やや遅れてその列に加わった日本などでは、近現代的な博物館や美術館、大学付属の研究所が作られるようになった。当時の博物館や大学付属の研究所では、しばしば自国が植民地や保護国として支配していた地域などから、そこの先住民族の人々の遺体や遺骨を、「人体標本」として収集・収奪していた。尚、これは日本も決して他人事ではなく、アイヌの人々の遺骨や、ハンセン氏病の患者たちの遺体の一部などが、「人骨標本」「人体組織標本」とされた歴史があることも、忘れてはいけない。

■人体標本にされた方の返還運動が各地で起こった

ところで、20世紀も終わりに近い1980〜90年代以降、世界各地の先住民族が、「先進国」の人々によって収奪された、自分たちの先祖の遺体を返還することを求める動きが始まった。その結果、そうした「人体標本」とされた遺体の中には、その遺体の主の出身地に返還され、きちんと葬送儀礼を行なって埋葬された遺体もある。

その際に執り行われる葬送儀礼は、大きく分けて二つの様式がある。

一つは、遺体の主の出身民族のしきたりに則って行われる場合である。そしてもう一つは、その地域を支配していた国で、主流とされる宗教宗派(多くの場合、カトリックやプロテスタント諸派のキリスト教)に則った葬儀である場合もある。

また、遺体返還運動が、遺体の主の出身地のいわば国家的な動きとなった場合には、遺体を納めた棺が国旗で覆われるなど、ほぼ国葬に近い儀礼も行われるケースもある。

■サラ・バートマンは手厚く葬られた


そうした国葬に準じた葬送儀礼が行われた例としては、「サラ・バートマン」の遺体の返還が挙げられる。サラ・バートマンは、現在の南アフリカ共和国の先住民族出身の女性であった。彼女は見世物興行のためにヨーロッパに連れて来られ、「ホッテントット・ヴィーナス」と呼ばれ、1816年にパリで病死した。

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