自ら死亡通知を新聞広告に出した芸術家 横尾忠則 (6/7ページ)

心に残る家族葬

横尾はよく、『TADANORI YOKOO』のように、写真を多用しているが、それはいろいろなもの、バラバラのものを組み合わせ、今まで存在しなかった形、世界を作る、新しい意味づけをなすことを目的とするコラージュという技法を用いているためである。

「『この世のもの』はすでに(コラージュにおける)『この世でないもの』の世界に存在しているわけだから、写真に写った現実の風景や事物もちゃんとあちらの世界にある」という確信ゆえに、横尾は「この世のもの」「この世でないもの」を区別すること、ひいては、現実と想像あるいは夢を分離するのではなく、人はこの両方の世界にいることをもっと知覚すべきなのではないだろうか、と問いかけている。

■最後に…

横尾が1960年代に作った、自分の「死」を強く押し出した作品は、2017年の今を生きる我々の日常とは、一見、何の関係もなさそうに思われる。しかし、人の一生や思い、過去の記憶や様々なイメージは、徹頭徹尾、一貫性があるとは限らない。むしろ横尾のコラージュのように何の意味も整合性もないものがバラバラに並存し、ひとつになり、時に突然、それらの繋がりがバラバラに分解する場合もある。

「死」を自分が経験していない限り、家族や愛する人の「死」であっても、完璧にわかっているとは断言できない。しかも、「死」を自分が経験したその瞬間、我々は語ることも、書くことも、絵を描くこともできなくなってしまう。たとえ瀕死の怪我や大病を経て蘇ったとしても、それは「死」を十分に体験したとは言えないのだ。それゆえ結局、我々は個々に「死」を「イメージ」するしかない。

かつての横尾のように、「死」によって、自分が絶対失いたくない誰かの喪失がもたらされることをひたすら恐れるのか、または自分自身を「抹殺」した後、「再生」するための「道」として考えるか。今を生きる自分を知るために、あえて「死」から自分を眺めるか。いずれにせよ、我々は「死」を避けることはできない。自身が病苦と闘う最中であったり、または病に苦しんでいる身内がいたとしたら、とても難しいことであるが、横尾のように「死」と近く、それでいて遠くに自分自身を据え、「吹っ切れた」「何をやってもいい」という、極彩色で彩られた明るい気持ちで「死」を見つめたいものである。

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