子供の守り神である地蔵。しかしそれとは違う成立ちの桐ヶ谷斎場の子別れ地蔵 (2/7ページ)

心に残る家族葬



中国では玄奘(げんじょう)が漢訳した『大乗大集地蔵十輪経(だいぞうだいしゅうじゅうりんぎょう)』などに現れ、大体400年頃から信仰対象であったことがわかる。また、600年前後に占卜(せんぼく)の行法を地蔵信仰に結びつけて説かれた『占察善悪業報経(せんざつぜんあくごうほうきょう)』や10〜11世紀に記された偽経(ぎきょう。サンスクリット語訳のものではなく、中国でつくられたもの)とされる『地蔵菩薩本願経(ほんがんぎょう)』など、地蔵信仰による現世利益が強調されているものも存在する。

■日本には平安末期にお地蔵さんが伝わる

このような地蔵信仰は、日本には平安末期に伝わる。当時は貴族の勢力が衰え、武士が台頭し始めていた。しかも、規範となるべき天台宗などの旧来の寺では、僧侶は腐敗し、民衆の不安は増大していた。それゆえ、浄土教による、「釈迦の教えが及ばなくなった末法では、仏法が正しく行われなくなる」という末法思想が蔓延するようになった。その結果、極楽浄土に往生が叶わない衆生(しゅじょう)は必ず地獄に堕ちると信じられ、地獄の責め苦からの救済、自分の身代わりとなって苦を受けてもらう神的存在が求められるようになった。

そこに中国から伝わった地蔵信仰が融合し、様々な変化を遂げながら、現在に至るまで、老若男女、身分や立場を超えて、日本中で親しまれてきた。しかも、地蔵菩薩そのものばかりではなく、地域の誰かしらと地蔵とが一体となった形で信仰されることが多く見られることも、日本の地蔵信仰の面白さと言える。

■死後ではなく生前の苦しみや痛みから助けてくれるものが地蔵信仰の功徳・利益

例えば、江戸時代のことだが、あるとき、歯痛に苦しんでいた水野日向守勝成の奥方・お珊が地蔵菩薩に一心に祈ったところ、快癒した。その後、お珊は死の間際に、もしも歯痛に悩む者がいたら、自分の墓前で地蔵の真言を唱えれば、必ず治るだろうと周囲の者に遺言した。お珊の遺骨は現在の広島県福山にある定福寺に葬られた後、江戸の善長寺(現・港区芝公園)に分骨された。そこに「お珊地蔵」が立てられ、歯痛に苦しむ人が多く参集するようになったという。
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