さあ一丁、ブワァーっと植木等だ!(1)「スーダラ節」の歌詞に激怒 (1/2ページ)
ニッポンの元気印は、間違いなく「植木等」に集約される。誰もが明るい未来を信じていた60年代、スイスイスーダララッターと鼻歌を歌い、高度経済成長期の水先案内人となった。戦後芸能界のスーパースターの死から10年、今こそ閉塞感に満ちた世の中に、あの豪快な笑い声が求められている。
「いよおっ!」
昭和32年3月、待ち合わせ場所の内幸町駅前。植木等は「無責任シリーズ」の主人公さながらに、右手を大きく上げて、陽気な声とともに現れた。
「すごい人だなあ‥‥」
あっけにとられる犬塚弘を前に、その男はいきなり話を始める。
「昨日、落語の『小言幸兵衛』を聴いたんだけど、これがおもしろくてねえ」
犬塚は戦後芸能史に足跡を残した「ハナ肇とクレージーキャッツ」のベーシストとして活動し、現在、唯一の健在メンバーとして植木等を語る。
「こちらのことはお構いなしに、ずっと落語の話をしているんだよ。最初は1メートルくらい距離があったのが、しまいには10センチまで顔が近づいて、ツバがバンバン飛んでくる。そして落語のオチまで言ってしまった。俺が『ところでお名前は?』と聞いたら、初めて『あ! 植木等って言うんだよ』だったから」
犬塚がハナ肇に誘われ、新しいバンドメンバーを探しに2人で見に行ったフランキー堺のバンドにいたのが、ギターの植木とトロンボーンの谷啓だった。
谷に続いて植木もクレージーに加わったのが昭和32年のこと。マネージメントを「渡辺プロダクション」の総帥として一大帝国を築く渡辺晋が引き受け、本格的なコミックバンドとして好評を博す。
そして昭和36年、6月に日本テレビで「シャボン玉ホリデー」が始まり、初シングル「スーダラ節」が8月に発売されると、クレージーと植木等の人気は国民的なものになった。
〈鳥の鳴かない日はあっても『スーダラ節』を聴かぬ日はない〉
クレージーの構成作家であり、多くの作詞も手掛けた青島幸男がそう表現した。日本中の子供からお年寄りまで、誰もが手をブラブラさせながら「♪スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイ~」と歌っていたのだ。