ヘルマン・ヘッセが敢えて母親の臨終に立ち会わなかった理由

心に残る家族葬

ヘルマン・ヘッセが敢えて母親の臨終に立ち会わなかった理由

親を亡くした人が後々、「死に目に間に合ってよかった」だとか、「死に目に会えなかったのが一生の後悔だ」、または「仕事の都合で親の死に目に間に合わなかったせいで、いまだに親戚から親不孝だと責められる」などと振り返る言葉を耳にすることは少なくない。それは日本社会の中で、子は親の死に目に立ち合うことが当然だととらえられていることを意味している。しかし、親の死に目にあえて立ち合わないことを選択した人もいる。『車輪の下』、『知と愛』などで知られるドイツ人の作家で詩人の、ヘルマン・ヘッセ(1877〜1962)である。

■それほど裕福ではない家庭に生まれたヘルマン・ヘッセ

ヘルマンは、現在のドイツ南部に存在したヴュルテンベルク王国内の小都市・カルフに生まれた。ヘッセ家は富裕ではなかったものの、大家族で親類縁者も多かったことから、強い絆で結ばれた、プロテスタント一家だった。

もともとカルフを含むシュヴァーベン地域は、カトリックの信徒が大半だったものの、ドイツ北方のルター主義から分離した、「敬虔主義」と呼ばれる、独特のプロテスタンティズムを信仰していた。それは強固なピューリタニズムに加え、旧弊な宗教的権威よりもあくまでも個人的な敬神の気持ちを重視したものだった。それゆえ信仰的な「飛び地」に暮らすように生活していた住民は、敬虔主義に基づく強固な紐帯をつくることで、日々暮らしていたとされている。しかもヘッセの両親は、敬虔主義のキリスト教をインドに広めるため、熱心に働いた、宣教師でもあった。

■ヘルマン・ヘッセの母親であるマリーの生い立ち

ヘルマンが後に、敢えて死に目に立ち合わなかったのは、母親のマリーである。マリーはインド南部・マラバール海岸沿岸のタラチェリで、厳格な宣教師の娘として生まれた。当時の宣教師たちは、子どもを置いて長期の旅に出ることが当たり前だったため、マリーは両親に見捨てられたような孤独を常に感じていた。後にマリーは幼少期を振り返り、「神経が弱く、すぐに興奮し、熱っぽい黒い目をした、顔色の悪い陰気な子供だった」、「あどけない年頃は早くも名状し難い恐怖にたびたび苦しめられた。夜中に大声で悲鳴を上げながら悪夢から醒めると、黙ったまま震えながら、ジャッカルの遠吠えに聞き耳を立てていた」と書き残している。

そのようなマリーは息子のヘルマン同様、誰に言われるともなく、「自分の感情を言葉で表現したい」欲求が強かった。そのため、日記や手記の中で、宣教師の親から受け継いだ、神への思いのみならず、隠しておきたい心の秘密を詳細に打ち明けたり、時に詩を書いたりもしていた。しかしマリーは、厳しい父親に静かに服従し、心の内奥に湧き上がる「芸術的な感性」を隠すことを選んだ。

結婚、出産、最初の夫との死別、インドで医学を習得し、医師として宣教団で働く選択をしなかったこと、ヘルマンの父、ヨハンネス・ヘッセとの再婚、出産、大病…など、人生の節目節目で出会う悲しみや挫折に加え、生来の繊細な心ゆえの葛藤に苦しみ続けることになる。しかし本心を抑圧し、よき妻・よき母・よきキリスト教徒としての生き方や考え方は、マリーが60歳で死ぬまで変わることはなかった。

■幼き頃のヘルマン・ヘッセ

ヘルマンは、マリーの2人目の夫、ヨハンネスの2番目の子どもとして生まれた。マリーの気質をそっくり受け継いだ格好のヘルマンは、夜ごとの悲鳴、怒り狂ったような反抗の態度、意固地に自分の殻に閉じこもっていたかと思えば、ずっと泣き続けるなど、ヘッセ一家の「悩みの種」だった。

マリーもヨハンネスも、ヘルマンに深い愛情を注いだものの、甘やかすことはなく、厳しく、どこか突き放すような態度で接することもあった。ヘルマンが3歳の頃、家族で近在の廃墟に出かけた。一番高いところにたどり着いたとき、急にヘルマンは、眼下に広がる広大な平野、そこに点在する小さな町や村、道や川を「見てごらん!」と抱え上げられたのだ。子煩悩な若い叔父に、悪気は全くなかった。しかしヘルマンにとっては、叔父の両手は震えているようで頼りなく、奈落の底に突き落とされる恐怖しか感じなかったのだ。家に帰り着くまでヘルマンは、泣き通しだったという。そうしたある種の「トラウマ体験」が心の根底にあるヘルマンは、牧歌的な思い出、例えば母親の褐色の髪、優しくなだめる父親の声、マロニエの木々を吹き過ぎる風の音、牧草地に咲き乱れるツリガネソウの花、土地の言葉で歌われる民謡…などへの心からの愛着と同時に、自分は罪深いため、神様から赦しが与えられず、心地いい場所や母親から引き離されるのではないか、という不安との両極に絶えず揺り動かされるようになっていった。 

■13歳で詩人になることを決意したヘルマン・ヘッセ

そのようなヘルマンだったが、13歳の時には、「詩人以外の何者にもなりたくない」と決意する。それは、ヘルマンの年の離れた異父兄が薬剤師の仕事を辞め、声楽家になる夢を叶えようとした。しかしほんの数ヶ月で、才能がなかったことを知らしめられ、元の仕事に戻ることになった、という「事件」に遭遇したことも大きいだろう。

ヘルマンは自身の決意を堅固に守り通し、詩人としての一生を全うすることになった。とはいえ、それまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。文学や詩を愛し、自らそれを書き記したヘルマンだったが、しばしば白昼夢にふけったり、時に癇癪を起こして、手がつけられなくなるような気質はますますひどくなっていった。難関とされる学校に合格するも、半年でドロップアウト。自殺未遂、精神病院への入院など、両親にとって、ますます精神的に負担になる存在になっていった。

■21歳に初めて詩集を自費出版したヘルマン・ヘッセ

自分自身、そして家族や周囲との葛藤を生きる中、書店員の職を得たヘルマンは、21歳になったとき、『ロマンチックな歌(Romantische Lieder)』を自費出版した。世間から大きな注目を浴びるほどではなかったが、「自分の本」ができたことは、ヘルマンに大きな充実感をもたらした。しかし母・マリーは、ヘルマンの詩集に対し、激しい拒絶感を表した。

マリーは自身が若い頃に書いた、深い信仰心を歌った詩と比べ、ヘルマンの詩は、放埓で世俗的、敬虔さを欠き、罪深く、正気の沙汰ではないようにさえ見えた。そこでヘルマンは母に対し、「信じてください…お母さんの判断とこまやかな感性には心から尊敬の念を抱いています。ぼくの心は、母親としての注意や心配を尊重も理解もしないほどお母さんから遠く隔たってはいません」と手紙を書き送った。しかしそれでも、マリーの態度が軟化することはなかった。

■ヘルマン・ヘッセが25歳の時に亡くなった母親のマリー

その2年後の1902年、長患いの末に、マリーは死ぬ。25歳のヘルマンは病床のマリーと直接会う機会はいくらでもあったが、自身が悩まされていた頭痛や不眠を癒すため、また、文学修養のために、絶え間なく遠出の外出や長期旅行に出かけてばかりだった。その間、心のこもった手紙を書き送ることはあっても、決して母を見舞うことはなかった。

ヘルマンがそうしたのは、病で苦しむ母親を間近で見るようなことになれば、自分自身が崩壊するのではないか、という強い不安があったからであるという。つまり、高揚と不安や癇癪に襲われるヘルマン自身を保っていたもの、「詩人以外の何者にもなりたくない」という決意が揺らぎ、「詩人以外の何者」になってしまうことを、避けたかったのだ。その前年の11月にヘルマンは、マリーが読むことは叶わなかったが、詩人カール・ブッセ監修の『新ドイツ叙情詩人』シリーズのひとりとして、『詩集(Die Gedichte)』を世に出していたことも、その選択に彼なりの「確信」を与えていたに違いない。

■臨終にも駆けつけずそ葬儀にも出なかったヘルマン・ヘッセ

マリーが危篤状態に陥ったことを手紙で知らされた際も、ヘルマンはその日のうちに行き来できる場所にいたにもかかわらず、「家族のみなさん。パパの2通の葉書が同時に届いた時、すでにそちらへ行くために着替えを終えていました。あれこれ考え、行かないことに決めました」と書き送っているのだ。

臨終に駆けつけなかったばかりではなく、葬儀にも出席しなかった。「悲しみのうちに、ぼくたちの愛する母が〔神から〕救済されたことを喜んでいます。心のなかでみんなといっしょに墓前に立ち、みんなの手を握ります」と書き、「そのうちに参ります」と家族に約束した。葬儀から数日後の手紙にも、ヘルマンは「愛するママの葬儀に出席しなかったことは申し訳なく思っています」と断りつつも、「みんなにとってもぼくにとっても、行かなくてよかったのではないかと考えています。あれ以来ずっと気落ちしたままです…(略)…亡くなったという知らせを受け取ってからというもの、あまりにもひどく感覚が麻痺してしまい、疲れ果ててしまっているので、鋭い痛みの他は何も感じないのです。その上、この何週間かはママのために解放されることをあまりにも強く願っていましたので、心から悲しむとともに、ママが静かに神のもとにお帰りになったことを喜ぶこともできたのです。それに、あれ以来ぼくはいつでも、ママを失ってしまったわけではない、ママはいつでもぼくたちのそばにいて、やさしく慰めてくれる、と感じています」とある意味「正直」な言葉を書き記した。

この年を境に、ヘルマンは詩人・作家としての成功に邁進することになる。

■ヘルマン・ヘッセが亡くなった母のことについて追悼した詩

後にマリーのことを「わが母に(Meiner lieven Mutter)」という詩においてこのように記し、追悼している。

  お話したいことがたくさんありました。
  私はあまりに永く他郷にいました。
  しかしそれでも、あなたはいつも
  いちばんよく 私を理解してくれた人でした。

  前々からあなたに上げたいと思っていた
  私の初めての贈り物を
  このおどおどした子供の手に持っている今、
  あなたは目をお閉じになりました。

  それでこれを読んでいると
  不思議にも胸の痛みが忘られて行くようです。
  なぜかといえば、あなたのたとえようもなく寛大なお心が
  千の糸で私をとりまいていますから。
  
詩の中の「私の初めての贈り物」とは、自費出版ではなく、職業詩人として初めて依頼された『詩集』のことだろう。

■母親から認められることがなかったが、逆にそれが成功の原動力となった

ヘルマンが母の臨終に立ち合わなかったこと、そして葬儀にも出なかったことは、自分で決めたこととはいえ、結婚、離婚、再婚、離婚、2度の世界大戦、ノーベル賞受賞などの流転の人生を経て85歳で亡くなるまで、終生ヘルマンにとって悔やまれることとなった。しかしヘルマンの場合は皮肉にも、その苦悩もまた彼自身の創造力の源でもあったのだ。

親子関係の歪みによって、子どもが精神的に苦しむこと、そしてその苦しみを成人後も引きずってしまい、社会生活に多くの齟齬を生じさせてしまうことに関し、「愛着障害」と定義づけ、研究を重ねている精神科医の岡田尊司は、「母親が決して認めようとしなかった作家ヘルマン・ヘッセは、多くの読者から熱狂的に受け入れられ、支持された」。そしてそれは、「母親にそっぽを向き、母親を拒否したからこそ手に入った成功」として、ヘッセの作品には、「まさにヘッセの苦しみと生き方が描かれていた。母親の死によってさえも、自分の領分が侵されないことを自ら示すことで、ヘッセは自分の文学を打ち立てることができた」と論じている。

■最後に…

親の臨終にあえて立ち合わない、葬儀にも出ないことは、言うまでもなく「非常識」で、「いまだに親戚から親不孝と責められる」ことだろう。国や時代や宗教が異なるとはいえ、ヘッセもそれを十分にわかっていた。だからこそヘッセは、「生きておられたころよりも今の方がはるかに強く、お母さんがいらっしゃるということを心のなかで感じていますので、お墓に訪ねていく必要はないのです」と、家族に書き送りつつ、自分自身を納得させていたのだ。もしもヘッセが母の臨終に立ち合い、葬儀に出ていたら、声楽家になる夢が破れた異父兄、あるいは母・マリーと同じように、終生、自分の心の欲求を抑圧し、人生そのものを諦めた日々を過ごすことになっていたかどうかは、わからない。がしかし、当時のヘルマンはそう思っていた。「文学者」や「芸術家」は時に普通の市民生活を送る我々の目には、「非常識」に映ることを行ったり、そうした行動や思考方法によって、市民生活を送る人々が考えもつかない作品を生み出しさえする。それゆえ、「常識」「信仰」などの観点から、ヘルマンを責めることは酷だと筆者を考える。身内や世間の誰よりも、ヘルマンは自身を責め、苦しみ、後悔していた。そして同時に、憂鬱な気分のまま、そしてそこから極端に感情が揺れ動き、自分自身の心のふるさとに安らぎ、高揚した気分で作品を残した。そんな彼の作品は、世界中の人々に今なお愛されている。

とはいえ、親の臨終に立ち合えた人、間に合わなかったことを後悔している人、そしてヘルマンのように、親子関係がうまくいかなかったため、その後の人生を精神的に圧迫されてきたことから、あえても死に目に立ち合わないことを決めた人もまた、価値ある人生を歩んでいることは言うまでもない。誰にとっても、親の死は重い。それにどう対峙するか。自分にとってかけがえのない親の最期など、考えたくないことかもしれない。だが、まだまだ大丈夫だから…などと先送りするのではなく、その時、自分はどうするのか、心の片隅で決めておく必要があると言えるだろう。「親のため」「親戚のため」ではなく、「自分のため」に。

参考文献:筑摩世界文学大系 (62)、 評伝ヘルマン・ヘッセ〈上〉―危機の巡礼者、 回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち

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