葬儀で遺骸を包む毛織物は自国のもののみ認めるという法律を作ったイギリス (2/3ページ)

心に残る家族葬



■大打撃を受けた毛織物産業

イングランドとアントウェルペンの貿易における紐帯は失われてしまったことから、イングランドの毛織物産業は深刻な打撃を受け、それに伴う大量の失業者があふれた。更に当時のイングランドでは人口も急速に増加していたことから、物価も上昇の一途を辿っていた。国内を覆う社会不安を払拭するため、当時のイングランドを支配していたエリザベス1世(治世1558〜1603)配下の政治エリートたちは、経済力を増し、アジアや西アフリカ、カリブ海域、地中海への進出に成功したオランダのように、海外貿易への野心を抱く。しかしオランダが有した海運技術や資金面に及ばず、特に東アジア・東南アジア地域では武力をもって排斥される憂き目に遭った。

■その結果当時のイギリスが取った毛織物産業の保護政策とは?

長く続く不況や大量の困窮した人々の問題、そしてピューリタン革命(1640〜1660年)などによる、国内に漂う不安定な状況を打破するために、17世紀半ばのジェームズ1世(治世1603〜1625)や共和制政権、チャールズ2世(治世1649〜1685)らによって、様々な対策が講じられた。例えばアントウェルペンからの亡命者から技術を学び、薄手の完成品「新毛織物」を新たな輸出品とした。また、輸入に頼っていた商品の国産化を目指し、毛織物以外の衣料品・染料・製紙・石炭・石けん・ガラス・金属製品などを製造する新しい産業を興したりした。葬儀の際に遺骸を包む布を毛織物に限ることにしたのも、それらの対策のひとつだった。

しかしこうした努力は、イングランド国内を立て直す抜本的な打開策というよりも、結果的には、特定の産業や特権商人を保護するためのものでしかなかった。とはいえ、国の産業保護を目的に、国民誰しもが避けられない身内の死、そしてそれを送るために重要な葬送儀礼において、遺骸を包む布を毛織物に限るように定めた着眼点には、ただただ驚かされる。

■最後に…

16世紀末〜17世紀末まで続いたイングランドの低迷は、18世紀の産業革命、そしてそれに力を得る形で成し遂げられたアジア地域における植民地獲得競争への勝利によって終わりを告げることになる。
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