葬儀で遺骸を包む毛織物は自国のもののみ認めるという法律を作ったイギリス (1/3ページ)

心に残る家族葬

葬儀で遺骸を包む毛織物は自国のもののみ認めるという法律を作ったイギリス

海外からの廉価な輸入品の流入によって、停頓してしまった自国の伝統的な産業を救うため、高い関税を課したり、輸入量の制限を加えることなどは、ある意味ありふれた方策だ。しかしクロムウェルによる共和制政権(1653〜1659年)時のイングランドでは、アフリカの奴隷を使役することで急速に発展した綿織物工業に対抗し、国を支えてきた伝統的な毛織物産業を保護するため、1660年以降、葬儀の際に毛織物以外の布で遺骸を包むことが違法になったという。

■当時のイギリスでは、毛織物産業が急速に発展

もともとは農村社会だったイングランドにおける羊毛の売買、そしてそれを用いた毛織物産業は15世紀末に急速に成長した。

例えば当時の南イングランド、デヴォン州のモアバス地区では、毎週日曜日ごとの礼拝の折に、羊毛やエール(ホップが用いられていないビールの一種)の売り上げの収支決済が教区司祭から報告されていた。それは単なる数字の列挙ではなく、共同体の連帯感を確認し合う重要な儀式のひとつだったという。

■国外にも需要があったイギリスの毛織物だが…

16世紀になると、イングランドの毛織物は国内消費のみならず、総輸出品の大半を占めるほどの主要産業となっていった。それは当時の商人が、ネーデルラント南部の港湾都市・アントウェルペンに新たな販路を見いだしたためである。アントウェルペンはヨーロッパの穀倉地帯だったバルト海地方、そしてイベリア半島との貿易の中継地として繁栄していた。商人にとっては、羊毛・毛織物関連の取引を行うばかりではなく、染色の原料やタペストリー(聖書物語や偉人などを表現したつづれ織の壁掛け)などの豪奢品を含む海外の物産、そして情報を手に入れるのに格好の「場所」だった。

しかし、ネーデルラントを統治していたカトリック国のスペインに対して、ネーデルラントのプロテスタントによって1568年に反乱が起こる。そして1585年、アントウェルペンは陥落した。騒擾を避けるため、市内の富裕な商人や貿易業者は、後のオランダ連邦共和国の首都となる、ネーデルラント北部のアムステルダムに相次いで移住することとなる。

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