百人一首のピュアな恋の歌は、実は不遇の生涯を送った廃帝・崇徳院の執念の歌? (2/3ページ)
妖怪伝説まで?「讃岐廃帝」とも呼ばれ、不遇のうちに亡くなった天皇・崇徳院とは?
崇徳院がそこまで父から疎まれた理由は、彼が実は鳥羽上皇の子ではなく、鳥羽上皇の祖父である白河法皇と、鳥羽上皇の中宮・璋子(後の待賢門院)の間にできた不倫の子だったからという説があるのですが、こういった背景をふまえて冒頭の歌を再度見ると、この歌が単なる恋の歌ではなく
「岩にせき止められた川の瀬の急流が、2つに別れても再び合流して1つになるように、京の地から私は不本意にも流されて対立する勢力に妨げられて帰ることができないが、いつか必ず戻って返り咲いてやる!」
という、讃岐へ流された崇徳院の強い執念が込められた歌とも解釈することができます。実際に、この説を唱える研究者も存在するほどです。
現在の崇徳院は…?慶応4(1868)年、父・孝明天皇の遺志を継いだ明治天皇によって、京都に白峯神宮が創建されました。崇徳院の神霊はここに移され、藤原中麻呂の乱で淡路に流されて、同じく京に二度と戻ることのないまま亡くなった淳仁天皇とともに、御祭神として祀られています。