ヒトと同様にクジラにも存在する鯨供養(法会・お墓・位牌・過去帳)

心に残る家族葬

ヒトと同様にクジラにも存在する鯨供養(法会・お墓・位牌・過去帳)

1980年代前後から反捕鯨団体・グリーンピースの活動が激化した。それに突き動かされる形で国際捕鯨委員会は1982年に「商業捕鯨モラトリアム(一時停止)」を採択することとなる。日本政府はこれに抗議したが、米国200海里水域における日本の漁業を認めないという圧力を受けたことから、やむなく商業捕鯨を停止し、今日に至っている。それから35年を経た現在、日本人にとっての「鯨」のイメージは、沖縄やハワイなどでのホエールウォッチングで目にする、大海原を悠々と泳ぐ偉大な自然界のシンボル、或いは癒しをもたらすものと変化している状況と言っても言い過ぎではないだろう。

■非常に身近な存在だった鯨

しかし、主に戦後の日本においては、鯨と言えば、団塊世代のシニアが子ども時代の思い出として語る、学校給食で出された鯨の竜田揚げ、南蛮漬け、大和煮など。家庭ではカレーライスの具、酒のつまみの鯨ベーコン、魚のように刺身として、ショウガ醤油と一緒に食べていた。
また、脂肪分がマーガリンの材料となったり、ソーセージやハムなどの加工肉の原料となったりもした。また、化学薬品やプラスチックなどの石油製品が普及する前は、血を軟膏に、鯨の腸内の結石を「龍涎香(りゅうぜんこう)」と呼ばれる高級な香料に、歯を笄(こうがい、髪飾りの一種)や櫛(くし)に、骨を畑の肥料に、皮を膠に、体の筋を弓弦などの武具に、鯨油を水田の稲の害虫駆除に利用したりもしていた。面白いところでは、今日でも、日本の伝統芸能のひとつである人形浄瑠璃の人形を操るのに、ヒゲクジラの髭が使われている。

このように鯨は捨てるところがほとんどなく、「鯨を取れば一村潤う」、「鯨一頭捕れば七浦賑わう」などといった当時のことわざ通り、鯨は体の全部位が人間にとって「恵み」「富」をもたらすものだった。しかも鯨は、自らの餌を求めて、群泳するイワシなどを追いかける。すると、鯨から逃げようとする大量の魚が、人が住む沿岸部に向かってくる。漁師はそれを釣り上げる。このように鯨は、間接的にも人間に大漁をもたらしていた。

■鯨と人の歴史は古い

日本における鯨との関わりは古代にさかのぼる。

例えば熊本市南区にある阿高(あだか)貝塚などから発見された、縄文時代中期から後期につくられたとされる土器の底に、鯨の脊椎骨と見られる圧痕がある。それは、土器をつくる際に、ナガスクジラやマッコウクジラなどの脊椎骨を利用した土器製作台が用いられていたためではないかと考えられている。
また縄文時代後期のものとされる、九州西北部沿岸〜朝鮮半島南部沿岸部で出土した石器・石鋸(いしのこ)が大型の石鏃(せきぞく。石の矢じり)と組み合わされて、鯨を含めた大型の海生哺乳類を捕るための道具として、海人たちに用いられていたと推察されている。

■捕鯨が盛んに行われるようになった二つの理由

今となっては日本では調査捕鯨以外は捕鯨禁止であるが、17世紀後半に捕鯨業が国内沿岸部の諸藩でさかんに行われるようになったのは、主に2つの理由がある。

ひとつには、それ以前は、天に運を任せる形で外洋を遊泳する鯨を見つけ、それを追尾し、熟練漁師が急所めがけて銛を撃つ「突き捕り」方式だった。しかし近世期の紀州太地(たいじ。現・和歌山県東牟婁郡太地町)において、鯨を丸ごと網で捕捉して動きを封じ、そこで数艘の船に分乗した漁師たちが続々と鯨に飛び移って、銛や剣で鯨を仕留める「網捕り」方式が考案された。それによって、捕鯨が一気に効率的になる。しかも網そのものも、当初は切れやすい藁製のものだったが、丈夫な苧網(おあみ)を用いるようになったのも大きい。こうしたことから鯨捕りを安定的な生業とする人々が集まって、世襲職能集団としての「鯨組」の組織化が進んだ。しかもこのように、確実な収穫が見込める捕鯨業のノウハウは、直に土佐や九州など、全国各地に広がっていったのだ。

そしてもうひとつの理由として、江戸幕府による鎖国令が遠因となっている。海外との大名貿易を禁じられた全国の大名たちは藩収を上げるため、捕鯨業のように多大な運上(うんじょう。今日の営業税に当たる)の徴収が見込める産業の繁栄を期待した。そして「鯨組」の人々に一定の保護と特権を与えるなど、藩をあげて支援したことが挙げられる。

■捕鯨が巨大産業となった一方で、鯨への尊敬・感謝の念もあった

こうして巨大産業となった捕鯨業だが、捕鯨に携わる人々にとって、鯨をどうとらえていたのだろうか。彼らにとっての鯨は、単なる「獲物」や「収入の糧」ではなく、「エビス」として崇敬の対象となっていた。例えば当時、九州西北部(現在の佐賀県や長崎県)において最も捕鯨業で栄えたという、平戸藩生月島(いきつきしま)の益富組に伝わる『羽指(はざし。鯨漁の際に銛を打つ人)踊唄』では、

  ♪お伊勢御利生でサー 今年は背美を掛けよよな
   お宮御利生でサー 今年は背美を掛けよよな
   恵比寿御利生でサー 今年は背美を掛けよよな

と唄われた。ここでは背美鯨(セミクジラ)が捕れる御利生(ごりしょう。御利益のこと)のありがたさを伊勢神宮、お宮様、恵比寿様を言祝ぐことで表現している。

しかも鯨を「エビス」と崇めるばかりではなく、日本国内の海に面した地域には、人間のように鯨を葬った墓、供養塔などが多く散見する。そして「鯨法会」、「鯨供養」と言われる儀式が執り行われているところもある。

■そんな鯨に対して行われた供養の数々

例えば山口県長門市青海島(おおみじま)の東端にある通浦(かよいうら)に存在する向岸寺(こうがんじ)は、鯨法会(ほうえ)、鯨墓、捕獲した鯨の過去帳、鯨の位牌が存在するなど、鯨供養が盛んに行われている寺である。

鯨法会は1679(延宝7)年に讃誉上人(さんよしょうにん、1628〜1734)が始めた、「鯨鯢(げいげい。鯨は雄クジラ、鯢は雌クジラ)一切魚鱗(ぎょりん。魚のこと)の往生安楽」を願う、鯨のための回向が毎年4月28〜5月2日の5日間、今日もなお、決して途切れることなく続けられている。

鯨墓は、通浦の4人の網頭(あみがしら。漁団の頭)が願主となり、1692(元禄5)年につくられたものだ。墓には「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう。仏陀や菩薩の称号)に加え、

  「業尽有情 雖故不生 故宿人天 同証仏果」

という、「諏訪の勘文(すわのかんもん。神文)」が刻まれている。

「諏訪の勘文」とはもともと、中世期に始まった、信濃にある諏訪明神信仰を起源とする。業の尽きた生き物は、たとえ放してやったとしても、長くは生きられない。それならば、贄(にえ)として明神の神前に供えられ、ひいてはそれを直会(なおらい)で食する人間の功徳にも助けられ、ついには畜生の境涯を脱し、成仏するのが最善である。そして猟師たちが鹿・猪や魚鳥を獲って明神の贄とするのも、決して殺生の行ないによるのではないという、明神からの託宣である。これは信濃の山々で狩猟を生業とする人々のみならず、武士や僧侶などにも受容され、人間が生きるために日々犯さざるを得ない殺生の罪を消し去ってくれる「聖句」としての機能を果たしていた。

そして墓の背後の地中には、元禄から明治期まで、合計75体の鯨の胎児が埋葬されており、供物や読経が人間同様、丁寧に営まれている。鯨の中でも胎児を祀ったのは、一説には、母鯨が仔鯨のために自分を犠牲にする母性愛を顕彰する意味合いがあったと言われている。

生後数ヶ月までの仔鯨は、群れの中で常に母鯨の庇護を受けながら行動している。しかし仔鯨が漁師の攻撃を受けて負傷し、逃げられなくなったとき、父鯨は適当に見切りをつけて逃げていくが、母鯨は仔鯨を見捨てることはなく、自分が襲われるのも構わず、仔鯨を守ろうとする性質がある。そして最終的には、母鯨が捕獲されてしまうのだという。

また、鯨の過去帳とは、『鯨鯢群類過去帳』と題されており、「来誉念西」などの法名をつけられたおよそ1000頭の鯨たちが、種類・捕獲した日時・場所・捕獲者名・体長とともに記録されている。

そして鯨の位牌は、「南無阿弥陀仏」と「諏訪の勘文」が記された、黒漆塗りのものだ。最初に紹介した毎年の法会は、過去帳と位牌の前でなされている。

このように丁重な鯨供養が行われている寺は、向岸寺に限ったものではない。鯨の過去帳がある寺は、愛媛県西予(せいよ)市の金剛寺、大分県臼杵(うすき)市の大橋寺、に新潟県佐渡市の地蔵院など。鯨の胎児を祀った墓は、京都府与謝(よさ)郡伊根町(いねちょう)の蛭子神社、千葉県鋸南町(きょなんまち)の弁財天にも存在する。これらのことからわかるのは、鯨供養は寺社の管轄下で行われていたにしても、特定の宗派教派によらず、仏教、神道を超えた形で行われていたことだ。

■鯨を供養した理由とは

このように日本全国の捕鯨がさかんだった土地で鯨供養がなされてきた理由として、本来殺生はなすべきことではないにもかかわらず、鯨捕りを生業とする人々、そして捕獲された鯨を食材や生活物資として「消費」する多くの人々の心に沸き起こる「罪悪感」や「後ろめたさ」を緩和するための「装置」であったと考えられている。

確かに、例えば、大分県臼杵市の大橋寺(だいきょうじ)にある鯨の過去帳には、「転生大鯨善魚」の記載が見える。このことは、人間の手によって理不尽な形で絶命することになった不幸な鯨であっても、逆に絶命したことによって、「大鯨」から「善魚」に「生まれ変わる」ことが仏の功徳によって約束されていると「意味づけ」られていることを表している。

しかし民俗学者の中村生雄(いくお)(2010)は、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)」といった、仏教的な万物平等観念が当時の日本において存在していたことと並行し、捕鯨者たちがあらゆる海の生き物の中で鯨に対して、特別の思い入れを抱いていたこと。更に捕鯨業そのものが活況を呈していたことから、自らに富をもたらしてくれた鯨への感謝、そして祟りが起こることを避ける。更には大漁であったとしても、それを濫費することを戒める意味合いがあったことを理由に挙げている。

■最後に…

山口県長門市仙崎(せんざき)出身の詩人・金子みすゞ(1903〜30)が『鯨捕り』という詩の中で、

   厚いどてらの重ね着で、
   舟の艏(みよし。船首のこと)に見て立つて、
   鯨弱ればたちまちに、
   ぱつと脱ぎすて素つ裸、
   さかまく波にをどり込む、
   むかし、むかしの漁夫(れうし)たち−
   きいてる胸も
   をどります。

と、危険な荒波をものともせず、勇猛果敢に活躍した鯨捕りのこと、そして長州藩の庇護のもと、大いに栄えた紫津が浦(しずがうら)を懐かしく振り返っている。

金子が描いたような日本全国の鯨捕りたちは、地域によって多少の違いはあるにせよ、「エビス」や、過去において犠牲になった鯨たちに祈りを捧げていたことは間違いない。金子がこの詩を書いた明治期の紫津が浦はもはや、「いまは鯨はもう寄らぬ、/浦は貧乏(びんぼ)になりました」と、鯨が捕れなくなってしまっていた。
更に1982年に、日本国内では商業捕鯨がなされなくなってもいる。そのことから、鯨料理やその味のみならず、「ここ」でかつて捕鯨が行われていたこと、巧みに鯨を仕留めた多くの鯨捕りがいたこと全てが忘れられている。場所によっては、時代の流れによって、漁業が排され、近代的な「港」として整備するために埋め立てられてしまい、往時の痕跡が全くないところもある。こうしたことから、道の片隅で朽ちたままの鯨墓、供養塔も少なくない。ホエールウォッチングなどに見る「癒し」や「大自然の偉大さ」をイメージさせる「鯨」もいいが、かつての我々に様々な場面で関わり、命を支えてくれてもいた「鯨」、そしてそれに命がけで関わった人々がいたことを思い浮かべてみてもいいのではないだろうか。その後、数は少ないが、鯨料理専門店に出向き、鯨に舌鼓を打ちつつも、鯨に限らず、生き物の命を「いただく」ことで生きる人間の宿命を噛み締めてみるのも一興かもしれない。

■参考文献と記事

■金子みすゞ『新装版 金子みすゞ全集 3:さみしい王女』1984年 JULA出版
■渡邊洋之『捕鯨問題の歴史社会学 —近現代日本におけるクジラと人間』2006年 東信堂
■中村生夫『日本人の宗教と動物観 殺生と肉食』2010年 吉川弘文館
■鳥巣京一「西海捕鯨の特徴」日本とクジラ展実行委員会編『福岡市博物館特別企画展 日本とクジラ』2011年 日本とクジラ展実行委員会 (83頁)
■鳥巣京一「鯨と恵比寿」日本とクジラ展実行委員会編『福岡市博物館特別企画展 日本とクジラ』2011年 日本とクジラ展実行委員会 (202頁)
■鳥巣京一「わが国の捕鯨業」日本とクジラ展実行委員会編『福岡市博物館特別企画展 日本とクジラ』2011年 日本とクジラ展実行委員会 (222−229頁)
■平川敬治『魚と人をめぐる文化史』2011年 弦書房
■久我谷渓太「鋸歯尖頭器・石鋸の系譜と展開」『東京大学考古学研究室研究紀要』第30号 2016年 東京大学考古学研究室編/刊 (1−32頁)
捕鯨問題における日本の立場」『在シドニー日本国総領事館』


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