当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」 (2/2ページ)

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大名小路へと火が飛んで、大名屋敷の屋根瓦も凄まじい勢いで崩れたため、屋根瓦の下敷きになって死んでしまう人たちも多数。

夕方になり、またもや麹町5丁目の町屋から火があがり、桜田一帯の大名屋敷も焼けつくし、山王社、日比谷―芝、増上寺の一部まで燃やし、海岸べりでようやく火はとまるのです。

江戸城完成に至る年月そして苦労を思うと、さぞかし無念だったことでしょう。きっと、心にぽっかり穴があいたような感じになったはず。そんな心を表すかのように、無情なカラッ風が吹きつける江戸の町。そして、空には、5万から10万人といわれる死者の亡霊がさまようことに。明暦の大火は、繁栄した町・江戸を容赦なく焼き尽くし、被害はあまりに深刻で残酷なものでした。自然の威力は、本当に恐ろしいですね。

明暦の大火

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