当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」 (1/2ページ)

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当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」

明暦3年に発生した「明暦の大火」は、江戸市街の3分の2を焼き尽くす大火事でした。風が吹き荒れる中、本郷丸山本妙寺で火事が発生し、あっという間に火は広がり、ついに江戸城の天守閣は焼失してしまいます。江戸城が混乱していく様子を、詳しくみてみると…。

江戸の町が焼け野原となった明暦の大火が起きたのは、明暦3(1657)年1月18日

この大火は、日本橋一帯や江戸下町などを焼けつくし、翌日の午前2時すぎにようやくおさまったと思いきや…。19日の午前10時頃、またしも小石川伝通院表門下にある与力屋敷から火が出たのです。この日も、風が強かったため、あっという間に火は燃え広がり、近くの水戸家下屋敷、竹林門、牛込門、田安門の外堀をこえて、江戸城北丸へ。

竜巻で江戸城も犠牲に

江戸城といえば、家康・秀忠・家光の3代で50年ちょっとの年月をかけて築き上げた城です。その城も、一瞬にして火に包まれてしまい、さらに容赦なく大きな竜巻が発生したそう。天守は耐火建築になっていたので、通常ならば、絶対に燃えることはありませんでした。しかし、竜巻の発生で窓が開いてしまい、そこから火が内部に入ってしまったのです。これだけでも十分大惨事なのに、近くにあった弾薬庫も大爆発!

地獄のような光景が思い浮かびます。巨大な火柱がたち、江戸城の本丸・二丸・三丸も次々と焼け落ちていきます。将軍・家綱も、命からがら逃げて、西丸に避難したそうですが、一時は将軍の生死もわからず城内は大混乱でした。

火は、まだまだ猛威をふるいます。

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