江戸の大半を焼いた「明暦の大火」後、幕府はいよいよ防火対策に本腰。江戸の町はどう変わった? (2/2ページ)

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一方の防火堤は、高さ二丈四尺(約7.3m)の長土手を築いた上に、火に強いといわれた松が植えられていました。

さらに町人地は、町割りも新たになります。火災時に道路が狭くて避難できなかった住民がいたことを教訓とし、従来は京間三間(約5.9m)だったのを五~六間(約9.9~11.8m)にひろげたので、だいぶ広々としました。

町屋の建築方法も再検討

防火対策には耐火建築も必要です。大火以前は、木造建築が密集していたので火事が起きやすい環境だったため、江戸には3タイプの町屋をつくられることになりました。

3種のうちの一つが土蔵造りです。これは屋根を瓦葺きにして軒裏や壁、建具など外側をすべてぶ厚い土壁塗りしっくい仕上げにする建築方法で、最も本格的な耐火建築でした。

次に、塗屋造りです。これは屋根が桟瓦葺き、外回り特に二階正面のみを土壁塗りしっくい仕上げにし、一階正面と側面、背面は木造下見板張りにする簡易耐火建築の町屋です。

三つめは、焼屋造り。裏長屋がこの建築方法で、屋根は板葺き、外壁はすべて下見板張りという、実に粗末なものでした。耐火対策をまったくしておらず、火事のために焼けるので、焼屋造りと呼ばれるのだそう。せっかくならすべて土蔵造りにしたらいいのに…と思いますが、幕府にも予算があるから難しかったのでしょうね。

こうして江戸の町は、防火対策を一つひとつ実行していったのです。

参考文献:「江戸の町(下)―巨大都市の誕生」内藤 昌

明暦の大火

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