千年以上前から存在していた当時の散骨と、私たちが考える現代の散骨の違い (2/5ページ)
秋津野の人のかくれば朝撒きし 君が思ほえて嘆きは止まず(巻7・1405)
(秋津野(あきづの)と人が口にすると、朝、骨を撒いたあなたのことが思い出されて、嘆きが止まらない)
玉梓の妹は玉かも あしひきの 清き山辺に撒けば散りぬる(巻7・1415)
(玉梓(たまづさ)の妻は玉(たま)なのか、(あしひきの)清い山辺に骨を撒いたら散らばってしまった)
玉梓の妹は花かも あしひきの この山陰に撒けば失せぬる(巻7・1416)
(玉梓の妻は花なのか、(あしひきの)この山陰(やまかげ)に骨を撒いたら見えなくなってしまった)
これらの歌から窺い知れることは、撒いた「骨」そのものへの忌避感、そして中世以降の日本で、死そのもの、そして死人の「骨」に付随するようになっってしまった「ケガレ」「不浄」「不吉」視は全く存在しない。最後の歌に至っては、「骨」を「花」そして「玉」、すなわち今日で言う「宝石」になぞらえてさえいるのだ。
■淳和天皇は、天皇としては珍しく、自ら質素な葬儀と散骨を希望し、実際に叶えられた
また歴史書の『続日本後紀』(855年頃)巻9、承和7(840)年5月6日に、死を目前にした淳和天皇(じゅんな、在位823〜833年)は皇太子の恒貞親王に、本来自分は飾り立てることを好まない。人や物に迷惑をかけたり、無駄をしたくない。葬儀に関する準備は全て簡素とすべきである」と述べ、「人は死ぬと霊は天に戻り、空虚となった墳墓には鬼が住みつき、遂には祟りをなし、長く災いを残すことになると聞いている。死後は骨を砕いて骨にし、山中に散布すべきである」と命じた。そして残された人々はその遺詔(いしょう)を守り、3日後に山城国乙訓郡物集村(やましろこくおとくにぐんもずめ、現・京都府南部)に葬った。骨は粉砕して大原野(おおはらの)西山の嶺の上に撒いたという。
■淳和天皇の時代は「大化の薄葬令」も影響していた
淳和天皇の場合は、個人的な葬送観ばかりではなく、「大化の薄葬(はくそう)令」の影響も考えられる。