千年以上前から存在していた当時の散骨と、私たちが考える現代の散骨の違い (3/5ページ)
それは、『日本書紀』巻25、大化2(646)年3月22日に、孝徳天皇(こうとく、在位645〜654年)が唐代中国の皇帝が民を戒めて、「昔の葬礼においては、墓所を丘陵に造った。墓のために盛り土や植樹もしなかった。棺は骨を朽ちさせるのに十分であればよい。着物は身体を朽ちさせるのに十分であればよい」、「豪華な葬儀、葬儀のための道具を豪華にする必要はない。豪華な葬儀や豪華な葬具を重んじるのは衆愚の人がすることだ」と言ったと述べた。それに重ねて、「弔うことは隠すことである。人に見られないのがよい」と強調した。そして人民が貧しいのは、支配者がむやみに立派な墓を造るためであるとして、身分に応じた墓の規模、葬儀の形式、使役する人々の数、所要日数、埋葬されるべき場所を定め、大臣から庶民に至るまで、副葬品に金銀の使用を禁じたものだ。しかもそれに背いた場合、一族を処罰すると厳しく定められていた。
■「大化の薄葬令」は他にどんな影響を及ぼしたか
確かに、この薄葬令によって、主に近畿地方を中心に、前方後円墳などに見られる巨大墳墓がつくられなくなっていったと言われている。その代わりに、6世紀半ばに伝来した仏教の影響から、墓そのものは巨大墳墓に比べると小規模なものの、それに付随する巨大寺院や霊廟、神社が建立されるようになっていった。
また、薄葬令が発せられた後に築造されたと推測される前方後円墳の中には、阿武山(あぶやま)古墳(現・大阪市高槻市・茨木市)のように、寸法や広さの点で、規定に整合したものと、西宮(にしのみや)古墳(現・奈良県生駒郡平群町)のように、規定よりも大きなものも存在する。それゆえ、この詔勅は徹底したものではなかったようである。その理由として考古学者の高橋照彦は、用明天皇(在位585?〜580?年)没後の蘇我氏・物部氏の争いや、乙巳(いっし)の変(622年)、壬申(じんしん)の乱(672年)、などのような大小の内乱が国内で勃発したことを理由のひとつとして挙げている。
■薄葬があったということは、その反対の厚葬も存在していた
今日で言う「薄葬」とは、被葬者の生前の社会的地位・財力から想定される標準的な葬法よりも意図的に簡略化したもののことを意味する。