天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 三木武夫・睦子夫人(下) (2/3ページ)
入閣の報告に三木邸を訪れた新大臣にいわく、『挨拶に来る場所が違っているんじゃないの』とピシャリだったのです」
三つは、その田中が昭和49年(1974年)12月、金脈・女性問題で退陣を決断したあと、後継が時の椎名悦三郎副総裁の「裁定」にゆだねられたときである。「裁定」される人物は何人か取り沙汰されていたが、その中に三木の名前もあった。これにも、当時を取材していた政治部記者の証言が残っている。
「結果的に三木が後継に裁定された裏には、睦子夫人の“暗躍”があった。裁定が出る前、椎名のところに、退陣して2年余でまだ生臭い佐藤栄作元首相が、『三木を指名してやってくれんか』と口添えしたともっぱらでした。なぜ佐藤がそんなことを言ってくるのか、椎名は裏を調べた。すると、睦子夫人が実家の森家とつながっている昭和電工元社長の安西家を動かし、その安西家がこれまた縁戚関係にある佐藤栄作にネジを巻いたということのようだった。この話が“椎名裁定”でどこまで決め手となったかは分からないが、睦子夫人は口を出す人の一方で、実際にそれだけの力のある女性だったことが分かる」
結果、睦子は結婚以来の悲願だった「三木を首相に」を実現させることとなった。三木首相が正式に決まった日、折りから睦子は急性盲腸炎で東京医科歯科大学附属病院に入院中であった。首班指名が決まった直後、睦子は三木にこう電話を入れたのだった。
「私のことは心配に及びません。パパは、いままで通りおやりになれば結構でございます」
夫妻には一人娘の紀世子(のちに参院議員)がいた。紀世子は「ファースト・レディー睦子」を、のちにこう述懐したものだった。
「三木政権は“三木おろし”など、自民党反主流から徹底的な反発を受け続けた2年間でした。結果的に、母にとっては必ずしも幸福な時代ではなかったかも知れません。白髪が、この間でアッという間に増えましたから。へこたれた姿は決して見せませんでしたけど」
最後に、三木の意外な“敬妻”エピソードを一つ。
三木は結婚以来、睦子の誕生日はもとより、2人の子供が誕生したときも、睦子への感謝のプレゼントを忘れたことがなかった。政治以外まるで世事には関心がなく、“ダメ男”だった三木にしてである。睦子は、筆者にこう言ったことがある。