【皿屋敷伝説】虐げられたことが原因で自ら命を絶ったお菊と現代の自殺問題 (3/7ページ)
その後家運が次第に傾き、とうとう松隈一家は石竹を離れてしまったという。
その後、無実の罪を背負わされたお菊の霊を慰めるため、屋敷があった南の一隅、現在お菊大明神の社祠とは反対方向の西側に、石の唐櫃(カラト)が設けられた。それは1.2mほどの煉瓦積みの台上に置かれ、中には現在もお菊大明神の祭壇の前に供えられている小さな鉄製の鳥居や、木のお札などが収められていたという。カラトの屋根を形づくっていた笠石は現在、お菊の井戸のそばの、古い井戸枠の上に置かれている。
そして一説には1875(明治8)年とも、1935(昭和10)年とも言われているが、最初のお菊大明神の社祠が建てられた。「お菊大明神」という扁額(へんがく)を掲げた木の鳥居があり、祠(ほこら)の正面には祭壇が設けられ、壁と天井のいたるところに、人の手や足の形の板が打ちつけられ、「御頑成就」と記されていた。それらの一部は今も残っている。
現在の社祠は1996(平成8)年4月に建て替えられたものだ。お菊が身を投げたという井戸は、社祠の左前方に位置している。今は鳥居につけられていた木の扁額はなく、井戸のかたわらの立木に立てかけられている。そして社祠内部の壁には、地元在住の日本絵師・柴田翠山の手によって、色鮮やかな菊花や鳥などが描かれている。
そしてお菊の墓は、かつては現在の社祠の左脇に、六地蔵と並べて祀られていた。しかし明治の初め頃、理由は不明だが、そこから500mほど西南に離れた場所にある曹洞宗の永泉寺(えいせんじ)境内に、六地蔵と共に移された。現在は台石だけになり、法名などを書いた主柱がない。しかし現在も、六地蔵の右側に、静かに位置している。
お菊大明神は腰から下の病気快癒のご利益があるとされているが、今では訪れる人はあまりいない。40年ぐらい前までは、お菊の命日とされる6月24日に毎年地域の人々が社祠の前に集まって、共に飲み食いを楽しんだり、7月24日に六地蔵の前で「おこもり」をしたりしていたという。いずれにせよ、当時そうした儀礼に参加していた人々は、お菊の悲劇を「伝説」「怪談」などの「架空の話」ではなく、実際に起こった史実として捉えていたという。