【皿屋敷伝説】虐げられたことが原因で自ら命を絶ったお菊と現代の自殺問題 (6/7ページ)
そのため、お菊大明神を含めた皿屋敷伝説を物語る遺物は、地域の人々によって、今なお大切に保存されているとはいっても、かつてほど、身につまされる形で人々の心を掴むことがなくなった。それゆえに、お菊の魂を慰めるための行事が廃れていったのではないだろうか。
■お菊のような最期を洗濯する人は、現代になってもまだまだ存在する
しかし現代もなお、就労形態や仕事の内容は異なっても、お菊のように上司や経営者から濡れ衣を着せられたことに絶望し、死を選ばざるを得なかった人は後を絶たない。とはいえ、その人が無実を訴えるために幽霊となって現れたり、自分を貶めた人を没落に導くことがあるかどうかはわからない。「祟り」かたまたまの偶然か、「因果応報」的な出来事が起こることもあるが、世の厳しい現実といえば、それまでのことだが、たいていの場合「加害者」は、傍目には何の罰も受けることなく、「憎まれっ子世に憚る」ではないが、幸せそうに生きているように見える場合も少なくない。そのため、傷ついて、前にも後ろにも動けなくなってしまったり、憤って抵抗しても、ますます自分が深手を負うばかりで何の意味もない。こう結論づけて、あえて「余計なことは何も考えない」ようにしながら、日々の生活を送っている人々も多いだろう。
■最期に…
そうした「心」をなくした世の中にあって、嘉麻市のお菊大明神や永泉寺内のお墓などのように、血縁関係の有無に関係なく、亡くなった人の無念に心を寄せ、その遺構を守り続ける人々が、今の慌ただしい時代に果たしてどれだけいるだろうか。世の人々に、テレビや新聞、ネットなどの記事で現代のお菊同様の状況に置かれた人のニュースに触れたとき、かわいそうに、安らかに眠ってください、とほんの一瞬でも祈ることができる心の余裕があれば、お菊を含めた、絶望の末の自殺を企てた人の供養になるのではないだろうか。今が全くゆとりのない社会だからこそ、逆に嘉麻市の「皿屋敷伝説」が単なる「怪談話」ではなく、多くの人々が日本人から失われてしまったと嘆く、「人情」や自分自身の「心」を取り戻させるものとして、我々の心に染み入るものとなるのだ。