すべてが新しかったエンタツ・アチャコ。ドラマ「わろてんか」で注目、漫才の歴史 [近代編] (3/5ページ)

Japaaan

しかし2人は昭和46年に捨丸が亡くなるまでコンビであり続けました。

そして「まんざいの骨董品でございまして」が決まり文句だった捨丸は、最後まで鼓を持ち続けます。改革者でありながら、古き万歳の名残を残した芸人でした。

漫才爆誕!すべてが新しかったエンタツ・アチャコ

昭和期に入って、いよいよ「漫才」が誕生します。

寄席万歳に革命が起こったのは昭和のはじめ(1930年代)です。「横山エンタツ・花菱アチャコ」というコンビが、まったく新しい“まんざい”を世に出しました。

それまでの寄席万歳は、楽器を手に和装で舞台に立つのが基本でしたが、エンタツ・アチャコは楽器を手放し、洋服姿で登場したのです。「君と僕」と言い合う日常会話のような口調。流行を取り入れた現代的なネタ。すべてが斬新でした。代表作は、当時大人気だった六大学野球をネタにした『早慶戦』です。

祝福芸の色を完全に排除し、ここに完成した「しゃべくり万歳」を、吉本興業は「漫才」と書き換えることしました。「万」より気楽なイメージの「漫」の字が採用されたそうです。漫画の「漫」と同じですね。

花菱アチャコ(左)・横山エンタツ(右)

『わろてんか』のキースとアサリのモデルはこの2人でしょう。
また、ドラマでは芸人出身の万丈目が台本を書きますが、エンタツ・アチャコの台本を書いたのは「秋田實(あきた・みのる)」という作家でした。秋田は東京帝大出身のインテリであり、多くの漫才台本を手がけ上方漫才の父と呼ばれました。後に、彼をモデルにした朝ドラ『心はいつもラムネ色』(昭和59-60年)が制作されます。

寄席を大爆笑させたエンタツ・アチャコの漫才は、やがてラジオの電波に乗って日本中に広まります。主演映画が何本も作られ、エンタツ・アチャコは大スター芸人となり、2人に続いて多くの漫才師が生まれることになります。

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