天皇に即位したか否かが長年議論されてきた幻の天皇と廃れた古墳の話 (3/8ページ)

心に残る家族葬

田舎のこと)」であり、なおかつ「閉じられた空間」でもあった吉野において、宗良親王(そうら、1311〜1385)によって編纂された『新葉和歌集』の中に51首の和歌を残しているような「文人」でもあった。例えば1376年、吉野の如意輪寺(にょいりんじ)で行われた、後村上天皇の九回忌の際に、

     四(よつ)の時ここのかへりに成りにけり 昨日の夢もおどろかぬまに」

という歌を詠んでいる。ここで言う「四の時」は「四季」の意味があり、「ここのかへり」は四季が9回繰り返されたこと。後村上天皇の崩御から9年が経過したことを言っている。「四の時」はもちろんのこと、「四の時ここのかへり」と表現した歌は過去にほとんど例はない。しかし『古今和歌集』(905年頃成立)の「仮名序」部分に、

     「かゝるに、今、皇の天の下しろしめすこと、四つの時九かへりになむ成りぬる。 」

と記されている。そのことから長慶天皇は『源氏物語』や『古今和歌集』などの古典を隅々まで深く読み込み、自らの歌作に反映させていたことがわかる。 

■多くの逸話が日本全国に残る長慶天皇

このように「文人」で、なおかつ「悲劇」「幻」の天皇であった長慶天皇には、多くの伝承が日本全国に伝わっている。民俗学者の柳田國男(1875〜1962)が『民間伝承論』(1930年)の中で、「昔から誰のともわからぬ王塚があると、直ちにそれを長慶天皇の御陵と決めて了ふ。長慶天皇の御陵が十を以て数える程各地に多い」と指摘しているが、福岡・嘉麻市の御塚古墳もその中のひとつであった。長慶天皇の御陵そのものは1944(昭和19)年に宮内省(現・宮内庁)によって、京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町の嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)と定められた。そのことから、「こここそが長慶天皇の御陵だ!」という「論争」は、それ以来沈静化しているが、明治時代においては、様々な土地の言い伝えを根拠に、全国各地で調査・記録、時に地域の自治体や宮内省へ上申する動きがあったという。

嘉麻市の御塚古墳は、室町〜戦国〜江戸〜明治と時が流れる中、いつしか「御塚(おんつか)」「鬼塚(おにつか)」「長慶様」と呼ばれるようになっていた。

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