天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 宮澤喜一・庸子夫人(上) (2/2ページ)

週刊実話

背景は、頭は切れるが政治力には難があると見ての「ミコシは軽くてパーがいい」という海部のときと同じ“論法”からであった。
 ちなみに、小沢によるこの“三者面談”は、自民党内から「若造がナニ様だと思っているんだ」という罵声とともに、「竹下派支配による“モロの権力二重構造”が明らか」との批判の声が渦巻いたのだった。

 そうした中で、宮澤内閣は発足した。宮澤は自らの“体質”を具現させるように、「政治改革」を掲げ、「品格ある国家」を内閣のキャッチフレーズとした。
 しかし、この宮澤政権は海部政権同様、竹下派の“掌の中”でキリキリ舞いに終始した。決断力の甘さも手伝ってコメを中心としたウルグアイ・ラウンド(新多角的貿易交渉)で迷走、掲げた「政治改革」も竹下派の“ドン”金丸信が佐川急便事件にひっかかり、脱税などが重なって議員辞職、逮捕でそれどころではなかった。「品格ある国家」のキャッチフレーズは、むしろ逆行した。そのうえで“一発逆転”を策した解散・総選挙も敗北と、ズタズタになって退陣を余儀なくされたのであった。
 ために、この総選挙敗北を機に、昭和30年(1955年)11月15日の自民党と民主党による「保守合同」で誕生した自民党は、一度として手放したことのなかった長期政権に終止符を打つことになった。時に、平成5年(1993年)8月である。宮澤は徳川幕府最後のランナー慶喜になぞられ、「徳川十五代将軍」と揶揄されてもいる。

 一方、こうした宮澤を支えた妻・庸子はというと、一般的な政治家夫人とはいかにも一線を画したそれだった。当時の宮澤派幹部のこんな証言がある。
 「庸子夫人は体があまり丈夫でなかったこともあるが、表舞台はもとより舞台裏でも一貫して“政治”に首を突っ込むことはなかった。宮澤の選挙の応援に顔を出したのも、昭和28年に初めて参院選に名乗りを上げたときだけで、以後、一度として後援会への出席なども含めて姿を見せていない。
 また、我々が宮澤邸に行っても夫人はまず顔を見せない。酒や肴の用意などは、すべて3人の書生がやっていた。これは、宮澤夫妻の“暗黙の了解事項”で、政治をやるのは自分、妻はタッチしなくて結構、束縛はしないという徹底した“欧米流合理主義”に徹していた」

 ナルホド、夫妻の結婚の経緯からして、芸人のタカアンドトシならぬ「欧米か」というものだった。実は意外、宮澤の“ナンパ”から始まったそれだったのだ。
=敬称略=
(この項つづく)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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