介護疲れと生活苦で母を殺害。温情判決が下され、再起誓うも8年後に自殺。 (4/7ページ)

心に残る家族葬

ここで終わりや」

    「そうか、あかんのか…A、一緒やで。お前と一緒や」

    「すまんな。すまんな」

    「こっちに来い…お前はわしの子や。わしがやったる」

という状況から、Aは「承諾殺人」などの罪に問われた。Aは京都地裁での裁判の中、「母の命を奪ってしまいましたが、生まれ変わるのであれば、もう1度、母の子として生まれたい」と語るなど、母親への深い愛情、自身が犯した罪を悔いていた。こうしたことから2006年7月に下された判決は、懲役2年6月、執行猶予3年の「温情判決」だった。その際、「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と述べ、判決を下した東尾龍一裁判官にAは、「母の分まで生きたい」と、自らの再起を誓っていたのである。

■再起を誓ったものの、その8年後に自殺。

しかしそれから8年後の2014年8月1日、Aは、判決後に移り住んだ滋賀県大津市の琵琶湖大橋から身を投げたのである。数百円の所持金と共に、腰につけていたウエストポーチには、小さなメモ書きが入っていた。「自分と母のへその緒を一緒に焼いて欲しい」。そして小箱の中には、へその緒が2つ入っていた。

事件前同様、コツコツ真面目に働いていたAだったが、折からの不況で2013年初めに、働いていた職場の契約が更新されず、辞めざるを得なくなっていた。休日に、職場の仲間と渓流釣りに出かけるなど、「年の割にエネルギッシュ」な印象を持たれていたAだったが、それ以来、自宅に引きこもりがちになってしまった。アパートや仕事を世話した親類は、「会社をクビになった」と伝えられたのを最後に、2014年の春頃から、Aと連絡がつかなくなってしまった。部屋に引きこもっていたAは、釣り用の毛針をつくり続けていたようである。

8月1日にAが「決行」したのは、所持金が尽き、アパートの契約が7月末で切れることから、母親の「介護殺人」の時同様、「もう行き場がない」と追い込まれてしまっていたのではないかと推察されている。

Aを見送った親族は、Aの希望通り、遺体と2つのへその緒を一緒に火葬した。

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