1964年の選抜で徳島海南を初出場初優勝へ導いたのちの名プロゴルファー!

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1964年の選抜で徳島海南を初出場初優勝へ導いたのちの名プロゴルファー!

 1924年の第1回大会から数えて今大会で90回を迎える春の選抜。長い歴史を誇るだけに、歴代の優勝校にはこんな珍しいチームもある。1964年第36回大会で史上6校目となる初出場初優勝を果たした徳島海南である。

 前年の秋。四国大会でベスト4に残ったこともあって土佐と安芸の高知県勢に続く3校目の四国枠で出場を果たした徳島海南。当然、大会前はまったく無印の存在である。初戦を前にチームの目標は“一度だけでも校歌を聞いて帰ろう”だったというのもうなずける話である。その無欲さが奏功したのか、初戦の秋田工戦を突破したのである。3回裏にエース・尾崎正司自らが右翼線へタイムリーを放ち2点を先制。8回裏にも本塁打が飛び出すなど4‐1での快勝だった。続く2回戦も強豪の報徳学園(兵庫)相手に1‐0。尾崎は4安打完封勝利を飾った。とはいえ、まだこの頃はさほど注目もされてはいなかった。注目を浴びるようになったのは、準々決勝の金沢(石川)戦後である。この試合で徳島海南は12長短打で8得点。投げては尾崎が10奪三振の8安打完封劇。この大勝でチームも尾崎もようやく注目されるようになったのだ。準決勝は同じ四国勢の土佐。尾崎と相手エースの島村聖(慶大‐NKK)との投手戦となったが、島村の暴投から得た1点を尾崎が無四球の3安打完封で死守した。こうして何と徳島海南は初出場で決勝戦へと進出したのである。

 決勝戦の相手は同じく初出場の尾道商(広島)だった。第1回大会を除くと史上初の初出場校同士の決勝である。試合は尾崎と相手エースの小川邦和(元・読売)との投げ合い。だが、先に失点したのは尾崎だった。初回の無死二塁のピンチを切り抜けて以降、相手打者を翻弄していたが、6回裏についに2失点。しかし、ここから味方打線が反撃を開始する。7回表に2死一、三塁からタイムリーで1点を返すと8回表には2死三塁の場面で尾崎自らがセンターオーバーの三塁打を放ち同点に。さらに9回表には1死満塁からスクイズを決め、ついに試合をひっくり返したのである。続く9回裏こそさすがに緊張したのか、エラーが続出し、2死満塁のピンチを迎えるが、尾崎が最後の打者をファーストフライに打ち取り、試合終了。みごとに初出場初優勝を飾ったのだった。ちなみにこの大会での快投が認められた尾崎は高卒後に西鉄(現在の埼玉西武)へと入団。プロでは芽が出なかったものの、名前を正司から将司へと改名してプロゴルファーとして大成功を収めた。そう、あの“ジャンボ尾崎”である。また、この徳島海南はこれ以後、春夏通じて甲子園出場はなく、2004年に開校した海部高に統合。その2年後の2006年3月で閉校されている。つまり、同校は甲子園での勝率が今後も10割のままなのである。それはまさに一瞬の輝きであった。

(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=

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