「とんでもない女!」源氏物語の作者・紫式部の痛烈な清少納言バッシングの真意とは? (2/3ページ)

Japaaan

紫式部が中宮彰子の女房として宮仕えを始めた頃には、清少納言は既に宮中を退出していました。従って紫式部は、清少納言と面識があったわけではないと言われています。

清少納言が仕えた皇后定子と言えば、一条天皇の最初の后にして最愛の正妃でした。しかし定子の父・藤原道隆が亡くなった後、兄の伊周が花山法王に矢を射かける事件を起こすなどして実家が没落し、更に藤原道長の娘・彰子が無理矢理に中宮の位に据えられ「二后並立」という前代未聞の事態になるなど、不運に見舞われます。

そして紫式部が宮中に上がる前に、渦中の定子自身も出産の床で亡くなりました。

これらを噂に聞き及んでいたからこそ、紫式部は「自分の主人があんなとんでもなくつらい目にあっていた最中に、楽しいことだけを書き綴っていた清少納言ってとんでもない!」と感じたのでしょう。

現代なら、とんでもない不幸に見舞われた芸能人が、そんな時期にさえ「インスタ映え」を意識したかのようなSNS投稿ばかりしていることを批判するような感覚でしょうか。

紫式部の思いは後に『源氏物語』に投影された

さて、紫式部の感じた皇后定子の悲劇に対する思いは、後に彼女の作品『源氏物語』にも影響を与えました。定子は死の直前に、3首の歌を残していました。そのうちの1首は…

知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも 急ぎたつかな
(知る人もいないあの世へ、心細いけれども急いでもう旅立たねばなりません)

実は紫式部の書いた『源氏物語』の最初の帖『桐壺』にも、桐壺の更衣が死の直前に天皇に贈った歌が登場します。

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