【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第3話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第3話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第2話

文政七年 正月(3)

雀色の夕空が、青花紙を水に溶いて裾から刷き広げたように、みるみる青紫に染まった。やがてその中に早くも夕星が白く輝き始めた宵の口、

「もうじき暗くなるし、帰るか」

吉原遊廓京町一丁目の表通りにいた男は、ほつれた鬢の毛束の条を撫ぜ、ふうと息を吐いた。

今年の吉原遊廓での凧売りはこれで終わりだ。数十持ち込んだ凧は今年もほとんど全部捌けた。籠の中に残っているのは、早速子どもが壊して泣きながら持ってきたのが一つと、あとは三つ四つだけである。

毎年決まって正月二日だけ吉原遊廓に凧売りに来るのは、二日ならばまだ休みの禿(かむろ)たちが大勢路傍に遊んでいるからであった。娑婆の子どもは明日も明後日も大手を振って遊んでいられるが、廓内(なか)の子どもたちはそうはいかない。

表通りに等間隔で置かれているたそや行燈を一つ、二つ、三つと数えながら、仲之町に出る木戸門をかいくぐろうとした時、遠くからいつもは聞こえない吉原の子どもたちの笑い声が聞こえてきて男の足が一瞬止まった。

(この声が聞きたかったんだ)

見上げると、自分の描いた絵凧が風を含んで誇らしげに夕空を飛んでいる。

男は頬を染め、そっと微笑んで自らの手を握りこんだ。

その時だった。

「ねえ」。

突然呼ばれてはっと振り向き、男は驚いてひっくり返った。

若い女のちまっとした顔が目の前にあったからだ。

値踏みするようにまじまじとこちらを見つめる女の目は、子猫のようにつぶらかで綺麗な薄墨の色だった。江戸一番の廓の水に磨かれた玉の肌は澄んだ水面ほどに透きとおり、そこに桜の薄い花弁を浮かべたようなくちびるが可愛い。装いは、よく似合う水色の小袖の上に、千鳥を散らした濃紫の羽織を肩に掛けていた。

「昼間、あたしの妹の身体に絵を描いたのは、あんた?」

女は細い柳腰に手を当てていきなり面詰した。

どうやら先刻裏茶屋に誘ってきた十五の新造の姉女郎らしい。

江戸女らしい歯切れの良さとは裏腹に、声が少女のように澄み透って可憐である。

「ああ、そうだけど」

「そう。ならあんたのせいね。妹が泣きながら帰ってきたんだよ」

男は反駁した。

「そりゃ心外だ。あの新造が裏茶屋に誘ってきたからこっちはその気で行ってみりゃ、刺青(ほりもの)の下絵付けをしてほしいと来た。泣きてえのはこっちだぜ」

確かに男は下心満載で裏茶屋に入った。しかし女の方は違った。部屋に上がると約束通りあの新造が待っていて、にっこりしたかと思うといきなり背を向けてぐわりと襟を寛げて腕を抜き、真っ白な背中を露わにした。そして無垢な微笑みで言い放ったのだ。

「この背中に、刺青の下絵を描いて」、と。

思いもよらない展開に男の下心はがくりとしぼんだが、女の頼みは断らなかった。女が嬉しそうに話す故郷の山村の話を聞きながら、筆一本でその身体に絵を描いた。

土のにおいが吉原遊廓と違って青臭かった事。路傍の名もなき草花に子供たちで好き好きに名をつけた事。空を翔けるトンビに願いを掛けたり、カラスに山のふもとの里の知らせを訊(たず)ねてみたりした事。花々にとまる虫たちを眺めた事。朝陽に微笑むように咲き、夕暮れに口をつぐむ照り降り花が墓に群生していた事。・・・・・・

「ポッポ花も咲いてたの」

とその新造はぽつりと言った。

「ポッポ花?」

「うん。廓内(なか)では一度も見かけた事ねえの。やっぱりおいらの山にしか咲かねえのかな」

新造は、いつの間にか子供っぽい話しぶりに戻っていた。故郷では自分の事をおいらと呼んでいたのだろう。

「そうかもな。わっちもポッポ花てえのは、聞いた事ねえな」

「そっか」

新造の背中が少し寂しそうにしょげて見えた。

男が小半刻ほどで描き上げたのは、女が話した草花やトンビなど山村の生き物たちと、その中央に宿る慈愛に満ちた観音菩薩の姿であった。

少しも手を抜いたつもりはない。

正月だというのに、描き上げた後には汗が散った。

筋彫りが仕上がるのを待たずに辞去したために新造の反応は見ていないが、

(泣くほど、気に入らなかったのか)

まさか彼女の姉貴分が報復に来るとは考えもしなかった。

(逃げよう。・・・・・・)

咄嗟にそう思った。

もしかすると用水桶の陰に筋骨隆々な男が腕を鳴らして待ち構えているかもしれない。

軽くなった天秤棒を担いで、素早く立ち去ろうとしたが、

「待って、行かせない」

姉女郎が華奢な身体をめいっぱい広げてとうせんぼしたので、足を止めた。

「分かった。わっちが悪かったよ。精一杯描いたが、泣かせッちまったなら謝る。悪かった」

「ええ」、

女は急ににっこり笑って言った。

「ありがとね」。

「え?」

男は思わず訊き返した。

「あの子、自分の身体が初めて好きになれたって喜んで泣いてたの」

女は可愛いあごを嬉しそうにクッと上げた。

「ほんにか」

騙された。

男は、悔しいような安心したような顔で鼻をこすった。

「勿論本当の妹なんかじゃあないの、こんなところだから。それでも美のるは」、

と、女は妹女郎の事を「美のる」と呼んだ。

「五つで女衒(せげん)のオンジに攫われてきた、あたしのいっち大事な妹。楼主は引き取るのを断ろうとしたけれど、あたしが面倒見るから美のるをうちの見世に置いてくれって頼んだんだ。それが、先日の水揚げ以来、自分は汚れちまったんだってすっかりしょげちまって困っていたの。でもあんたのお陰で、身体に故郷の花が咲いたの観音様が宿ったのって大はしゃぎ。今頃きっと、素っ裸で皆に自慢してる。子どもに戻ったみたい。これであの子、廓内(なか)でしゃんと生きていける。ほんにありがとう。・・・・・・」

女は繊手を合わせて拝むようにして礼を述べた。それから、細い指で渋紙籠の中の凧を指して訊いた。

「ねえ、そこにあるの、見ていい?」

「いいよ」

男が頷くと、女は籠の中を覗き込んで一つ取り上げ、空に透かすように高く掲げた。袖が落ち、余分な肉のない子どものような細腕が露になった。その腕があんまり白くて、男の目は思わず吸いつけられた。

「今年は、水滸伝なんだね」

女が不意に、昔から知っているような口ぶりでそう言った。

「え?」

男は聞き違えたかと思った。凧を売った子どもの顔はだいたい覚えているが、この女には凧を売った覚えも言葉を交わした覚えもない。

「子どもの頃から毎年、おっ母さんに見つからないように抜け出して、物陰に隠れて見てたんだ」

「そうか、それでわっちゃア覚えてないんだな」

「あんた、実は真面目でしょう」

「え?」

「相変わらず、つまんない絵だもん」

女が微笑みながら言った言葉に、男は驚いた。

「つまんない?」

「うん」、

筆は緻密で上手いけれど、どこか生真面目さが抜けない。絵が、むっと息を詰めていて苦しそう。

「上手いんだからさ、もっと面白い絵を描いてよ」

そうしたらあんた、江戸一番の凧売りになれるよ。

女はそう言って、いたずらっぽくきひひっと笑った。

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