昭和時代の娯楽の王様だった紙芝居屋のおっちゃんはいったい何者だったのか? (2/4ページ)
教育より娯楽性を重視した作品がほとんどです。物語には残酷な描写があったり、ほんのりお色気があったりと、子ども向けとしては少々刺激の強い要素も含まれていました。そのため「俗悪」のレッテルを貼られ、子どもに悪影響を及ぼすと非難されたこともありました。しかし、それで人気は衰えることはありませんでした。
午後になり小学生が下校する頃、どこからともなく現れる自転車。荷台には引き出し付きの大きな箱、その上に紙芝居をはめる枠。箱は舞台代わりでした。拍子木や太鼓の音が響いたら、紙芝居が始まる合図です。子ども達は喜び勇んで駆けつけました。
テレビもインターネットもなく、漫画も発展途上だった時代、子どもにとって紙芝居は娯楽の王様だったのです。
紙芝居屋の収入源は? そして正体は…そんな紙芝居屋が、何で利益を得ていたのか知っていますか。街頭紙芝居はボランティアではなく、れっきとした商売でした。昭和の前半、全国津々浦々に紙芝居屋が現れたのは、商売として成り立っていたからです。
利益と聞いて、多くの人が真っ先に思いつくのは「見物料」でしょう。「子どもたちは見物料を支払って紙芝居を見ていた」と考えるのは自然といえます。しかし子ども達は、映画のようにチケットを買って見たわけではありません。買ったのは「飴」でした。
子どもから小銭を受け取ったおじさんは、箱から取り出した水飴などを渡します。これで商売成立。飴を買ってくれた子どもにのみ、紙芝居を見る権利が与えられるというシステムなのです。あくまでも売り物は飴で、紙芝居は人寄せの道具、オマケという立ち位置でした。
つまり紙芝居屋の正体は「飴屋」だったのです。本来的には大道芸人ではなく、行商人であり露天商でした。芸は人を寄せるためのもので、目的は品物を買ってもらうこと。バナナのたたき売りやガマの油売りの仲間といえます。
売られるものは最初は棒飴でしたが、次第に水飴など種類が増え、さらにソースせんべいなど他の駄菓子も加わりました。さながら「移動する駄菓子屋」だったため、町の駄菓子屋にライバル視された時代もあったそうです。
このように路上でパフォーマンスし品物を売る商売人は、江戸時代から存在しました。