【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第5話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第5話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第4話

文政七年 正月  (5)

吉原遊廓を出た国芳は、夜道を駆けた。

提灯を借りずとも月が澄んで路(みち)がひどく明るい。

蛇行する衣紋坂を奔馬の勢いで駆け上がり右に曲がると、葉のない見返り柳の枝が男の後ろ髪を引くようにさわさわと舞い上がった。

歌川広重「江戸名所新吉原日本堤見返柳」ボストン美術館蔵

歌川広重「江都名所 吉原日本堤」ボストン美術館

八丁堤の土手は、百六十もあるという葭簀張(よしずば)りの水茶屋の丸提灯で左右をほのぼのと照らされていた。

国芳は近道のために編笠茶屋の角で曲がり、畔に何度か転げ落ちそうになりながら広大な田の間を駆けた。浅草寺雷門、助六の花川戸から七十六間の吾妻橋の板を踏みならして東岸に渡る。普通なら舟に乗っても良いような距離だが、金がないためにひたすら走って南へ下った。

大川沿いをつうっと走り、本所竪川の北岸相生町を北に入った松坂町に国芳の棲み家はあった。一昔前は吉良上野介の屋敷があった辺りである。表通りから町木戸をくぐって入れば、狭い路地に裏長屋が密集している。その中の一戸に国芳の親友が暮らしており、国芳はそこの居候だ。勝手を除くと手前四畳、奥が六畳の二間三間の間取りである。

「佐吉!佐吉!」

国芳は土間に飛び込み焦ったようにその名を呼んだ。

「佐吉はここだよ、芳さん」

奥の間から声がした。

障子をすぱんと開くと佐吉と呼ばれた男が綿入りの夜着を被って長火鉢の傍に寝そべっていた。茶碗酒を舐めつつ、蓋を外した瓦灯の灯りでゆったり黄表紙を読んでいる。

「落っこちた!」

国芳の慌てた声で、佐吉は役者のように整った眉を上げた。

「どこに?」

「とおんと!」

「あ、もしかして肥溜め?」

「違わア馬鹿!惚れたってんだよ、女に!」

「なんだ、そっちか」

佐吉はへらへら笑いながら身を起こした。

すだれのような長いまつげの奥に、見事な切れ長の目が透ける。小鬢と月代はこざっぱりと潔く、横鬢の毛が一条(ひとすじ)しどけなく色白の頬にかかっている。

恐ろしいほどの、色男だった。

「今度はどこの姐さんだい」

「吉原」

「へえ、あんた北(よしわら)に行く金なんぞねえだろ。あれか、蹴(け)ころか」

蹴ころとは、吉原遊廓内で最下級の女郎だ。彼女たちは見世に置かれているわけではなく、羅生門河岸に寄り集まり、犬小屋に毛が生えた程度の小屋を並べている。梅毒(かさ)や年齢で見世に居られなくなった女郎たちがひしめく、掃き溜めのような場所である。無論好んで訪れる客は居ない。何かの拍子に誤って近付いて、恐れおののき逃げ出す客を蹴ころばすようにして床に引きずり込むから蹴ころという。

「まさか。よく分かんねえけど、どっかの見世の花魁って言ってた」

「いやもう、この際だから真剣に言うけど、吉原花魁なんざやめとけって。芳さんには土台無理だよ」

佐吉が手をひらひらさせながら言うと、国芳は鼻を膨らませて反駁した。

「いや、わっちゃあ本気だ」

「そんなら、北斎とどっちが好き?」

「北・・・・・・花魁!」

「ふうん、初めて芳さんの中で女が北斎を上回ったな。それほど本気なのか。そんなら名前を言ってみねえな」

「名は、・・・・・・」

国芳は急に少年のように頬を染めて俯き、そっと言った。

「おみつってんだ」

「なんでえ、そりゃ本名じゃねえか。源氏名は」

「分からねえ」

「あんだい芳さん。そんじゃ探しようもねえや」

「あ、でも、見世は京町一丁目の岡本屋だった」

「やあ、そりゃ驚き桃の木だな。京町一丁目の岡本屋っちゃア、中々間口の広い見世だぜ。半籬(はんまがき)の花魁とあっちゃ、やっぱり芳さんには無理だ。とっとと諦めて相応のとこにするこった」

「嫌だ。わっちゃあ惚れたんだ」

「そうは言ってもよ」、

佐吉は言いにくそうに口を開いた。

「芳さんは俺んとこに三年も居候してるようなド貧乏の絵描きだよ。そんな奴が吉原花魁に近づく余地なんざ猫の毛ほどもねえよ、分かるかえ?」

そうなのだ。

国芳の本業は、浮世絵師である。歌川豊国に師事し、浮世絵界では言わば江戸一番の名門出身と言っていい。とはいえ、豊国門下の浮世絵師と呼ぶにはお粗末すぎるほどに仕事がない。だから貧乏長屋の家賃も払えずに、年下の佐吉の屋敷に居候している。正月には絵凧、夏になれば団扇絵が多少売れるがそれも雀の涙。佐吉が居なければ国芳はその日食うにも困る有様なのである。

「それとも、その花魁はまさか、芳さんの絵に惚れてるのか?それなら勝算がある」

「わっちの絵の事、つまんねえって言ってた」

「全然見込みねえじゃねえか!なんでそんな女に惚れんだよ芳さん!」

「だからいいじゃねえかよ。今までわっちの絵の事つまんねえって言ってきた奴なんていなかった。本当につまらねえと思う奴は何も言わずにただ買わねえだけだ。歌川の工房でも豊国の父っつぁんはわっちの絵なんざ見ちゃくれねえし、国貞の兄さんなんざ『奇を衒うな、とにかく人好きのする真っ当な歌川風の絵を描け』の一点張り。ところがあの花魁は、もっと面白え絵を描いてくれって、今のままじゃつまらねえって、わっちにそう言ったんだ。俄然やる気が湧いたぜ。わっちゃアいつか必ず、あの女が面白えと言う絵を描いてやりてえのさ」

「芳さんはずりいや」

「なんで」

「だって芳さんにそう言われちまっちゃあ、俺ア駄目と言えねえのが分かってんじゃねえか。あーあ、なんで俺ア芳さんの絵に惚れちまったんだろう」

「あははっ、お互い惚れたもん負けだな!」

「なんか腹立つこの人」

憎まれ口を叩きながらも佐吉はくくれたあごで笑っている。

不思議と、国芳の絵はいつか売れると信じて疑っていない。

姓は吉田という。

齢は国芳より四つ下でまだ二十四だが、既に尾張徳川家御用達の秣屋(まぐさや)の稼業を継いで、和田戸山の十四万坪の尾張藩下屋敷等に出入りしている大店の息子である。かといってそうした肩書きにこだわりはないらしく、神田にある実家を早々に出て自力で本所の二間三間を借り、仕事の時以外は狂歌に精を出している。狂歌師としての号は梅屋鶴子(つるやかくし)という。そういう酔狂な男でなければ、国芳の絵に惚れて本人を住まわせるなんて事はしないだろう。

「まあ、俺も出来る限り探してみるよ」

佐吉がほの明かりの中で、涼やかに笑った。

記事中イラスト:筆者

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