大阪北部地震の震源近くで、400年前に起きた「慶長伏見地震」とは? (2/2ページ)

豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵)(PD-old 、Wikimedia Commonsより)
この伏見城の主が、あの豊臣秀吉だった。秀吉は1592年から築城を始めて、1596年に完成しており、指月伏見城と呼ばれている。ところが完成直後に起きた慶長伏見地震で、天守閣の上二層が倒壊する大きな損害を受ける。
江戸時代前期の史書『当代記』によると、城内で数百人が死亡したが、豊臣秀吉は無事で、台所で一晩をすごしたという。翌日から、指月伏見城から北東約1キロにある高台・木幡山に仮の小屋を造り、避難生活を送ったとされる。後に木幡山伏見城が築城されることになる。
この地震にまつわる記録や逸話は多い。謹慎中だった加藤清正が伏見城に駆けつけ、動けない秀吉をおんぶして助け、謹慎を解かれる『地震加藤』という歌舞伎や落語も誕生している。もちろん史実ではなく、創作であろう。
なお災害がきっかけとなり、この年10月27日に「慶長」に改元された。
慶長伏見地震とは、当時の権力者にも多大な被害を与え、元号を変える契機ともなった、大きな震災だった。なお、今回の地震の震源は、有馬-高槻断層帯と特定されたわけではない。余震にはくれぐれもご注意いただきたい。