死の島か宝の島か?米朝会談の開催地「カペラ・ホテル」の秘密

まいじつ

(C)mmgemini / Shutterstock
(C)mmgemini / Shutterstock

6月12日にシンガポールで開催された米朝首脳会談の舞台となったセントーサ島の5つ星ホテル『カペラ・ホテル』は、旅行通のあいだで以前からよく知られた存在だ。

セントーサはマレー語では“平和と静寂”の意味で、実際ここにはいくつものビーチやユニバーサル・スタジオなどのアトラクションがあるほか、3つのプールやテニスコート、スパがある。また、ホテルの部屋からはクジャクが歩き回る姿も眺望できる。

ホテルはイギリスのマンチェスター生まれの建築家、ノーマン・フォスター氏によって建てられた。歌手のマドンナやレディー・ガガも宿泊したことのある客室112室のほか、スイートルームやヴィラやマナーハウスもある。ベッドルームが3部屋あるイギリス植民地時代からのマナーハウスの宿泊費は、1泊1万シンガポールドル(約83万円)だ。

「カペラ・ホテルは、イギリス王立砲兵連隊の将校らの宿泊所として使われ、連隊の食堂もありました。ホテルのウェブサイトによると、将校らは日本軍の侵攻を前に食堂に面した場所に銀を埋め、一部はマレーシアによって回収されたらしいものの『残りの行方はいまだ不明であり、芝生の下に眠っている可能性がある』とウェブサイトには記されています」(旅行ライター)

「死の島」と呼ばれていたセントーサ島

過去、この島は全く別の顔を持っていた。

「1972年までセントーサ島は『Pulau Belakang Mati』と呼ばれていたのです。意味は“死の島”。この島名の由来には諸説ありますが、唯一確かなことは、第二次世界大戦時の1942年、旧日本軍がシンガポールをイギリスから奪い、占領し、セントーサ島をイギリスとオーストラリア兵士の捕虜収容所として利用したことでしょう。イギリスメディアのBBCやガーディアン紙によると、島には約400名の兵士たちが収容されていたといいます。また、シンガポールに住んでいた中国人がその反日言動を理由に拘束され、島に送られ、虐殺されたという説もあります。これは戦後にねつ造された中国側のプロパガンダですが…」(国際ジャーナリスト)

シンガポールでは、これまでも主要なサミットがおこなわれてきたが、セントーサ島では一度もなかった。日本がかつて占領したシンガポールで初めて開催された歴史的な会議は、日本を含む東アジアの平和の分岐点になることは間違いない。

【画像】

mmgemini / Shutterstock

「死の島か宝の島か?米朝会談の開催地「カペラ・ホテル」の秘密」のページです。デイリーニュースオンラインは、国際問題都市伝説シンガポールカルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧