プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「ハルク・ホーガン」米国のプロレス観を一変させた“超人” (1/2ページ)

週刊実話

 ハルク・ホーガンは、世界のプロレス史を書き換えたといっても過言ではない。1983年の『第1回IWGPリーグ戦』で、アントニオ猪木を失神KOに追い込んだシリアスな試合ぶりから一転、WWF(現・WWE)でのホーガンは、入場テーマ曲『リアル・アメリカン』に合わせたポージングで会場を沸かせるパフォーマーと化していった。

 '83年、ニューヨークの有力プロモーションにすぎなかったWWFが、全米侵攻を開始すると、以後、アメリカのプロレス事情は一変する。
 それまで西海岸なら西海岸、南部なら南部と各地のプロモーターがそれぞれのテリトリーを守り、ご当地の興行ビジネスとして行われていたものが、テレビ放送を軸としたメディア産業へと様変わりしたのだ。

 全米制覇に向けて各地の人気レスラーが次々と引き抜かれる中で、そのトップに据えられたのがホーガンであった。
 '79年〜'80年にかけてはWWFで連戦連勝を飾って、“マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡”と評されたが、これを離脱してAWAに移籍。'82年には出演した映画『ロッキー3』が公開され、絶大な人気を獲得することになる。
 しかし、AWAでは主宰のバーン・ガニアがレスリング技術に乏しい選手を軽視したため、パワーファイターのホーガンは王者になれず、そこに再び声を掛けたのがWWFだった。

 WWF離脱の要因は、ビンス・マクマホン・シニアが映画出演に難色を示したことであったが、同団体を継いだジュニアの意向は違った。映画スターとして知名度を高めたホーガンこそ“全米進出の主役にふさわしい”と考えたのだ。
 この見立ては、ズバリ的中する。'84年1月にアイアン・シークを破ってWWF王座を獲得すると、全米各地で防衛戦を行って、いずれも大盛況を収めた。だが、WWF&ホーガンの攻勢はこれにとどまらず、さらに加速していく。

 そのきっかけとなったのが、当時、人気急上昇中だった歌手、シンディ・ローパーとのコラボだった。
 まずはシンディが、女子レスラーのセコンドとしてWWFの興行に参加すると、続いてホーガンがシンディの土俵であるMTVに出演。

「プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「ハルク・ホーガン」米国のプロレス観を一変させた“超人”」のページです。デイリーニュースオンラインは、スポーツなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧