【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第13話
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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第12話 ■文政七年 夏と、秋(5)引手茶屋を引き揚げた一行は、京町二丁目の裏茶屋、桐屋の奥の間に居た。
国芳とみつがいつぞや逢い引きに使ったまさにその部屋である。
「ほう」
すうっと開いた襖の向こうを覗いて、一同は感嘆した。
小づくりだが、欄間には梅に鶯を模し、床の間には薄(すすき)と女郎花(おみなえし)が飾られているなど、どこを取っても雅致(がち)のある良い部屋である。そしてやはりなんといっても青竹の連子窓の隙間から漏れる白い月光が美しい。
「ここの主人は余程の数寄者だな」
佐吉は嬉しそうに近江屋に耳打ちした。
国芳は至極真剣な表情でその部屋の隅々までを眺めたのち、
「花魁」
ついとみつの白い手を取り、連子窓の傍に横向きに座らせた。あまりに自然の事で、みつには驚く余地もなかった。
「その異国の美しい帯に」、
国芳がさりげない声で言った。
「ちょいと触れてもいいかえ」。
やや緊張した少年のような表情でそう言い、とろけるように優しく微笑した。
生成地の木綿に独特の臙脂や藍で東洋風の草花を鮮やかに模した更紗の帯は、一見した時から国芳の眼を惹きつけて仕方がなかったのだろう。
みつがつんと目を逸らすと、国芳はその帯に手を掛け、前結びにしていた帯を解き、垂れを背後に大きく広げた。
あっと言う間にしどけなく床に広がった帯は、まるで唐草や花を浮かべて移ろう大河のように、床の上に美しい流れを生み出した。
「綺麗だ」
近江屋と佐吉は驚嘆の声を漏らした。
その後も国芳は着物の裾の蔦と蜻蛉(かげろう)をよく見えるように配し、御簾紙(みすがみ)を持たせ、構図を整えた。
最後に藍鼠の手ぬぐいをみつの腕に掛けた時、
「綺麗だぜ、おみつ。・・・・・・」
みつの耳にはかすかにそう聞こえた気がしたが、顔をあげると国芳はもう傍には居なかった。
「どうです、近江屋の旦那」
国芳が少し離れた場所で腕組みをして自信たっぷりに訊いた。
連子窓の下には湯浴みするようにとろとろと月光をしたたらせる婀娜な女が一人、仕上がっていた。
真白の光が糸のように細く伝うそのうなじから、赤い蹴出しの奥に覗く白い脛(はぎ)から、吸えば酔うほどの色気が匂い立った。
「やあ、たまらねえよ。わざと芸者風にしているのもいいねえ。こんな絵出したら見世が一気に男の客で溢れらア」
近江屋は喜んで手を叩いた。
「あとアあんたの腕に任せたよ、国芳さん」
「合点」
国芳はペロリと唇を舐めるとすぐに矢立(やたて)を取り出しておもむろにさらさらと描き始めた。
「そんなら芳さんが描きあがるまで、俺ア近江屋の旦那と別の座敷で呑んでいやしょう」
佐吉の一言で男二人と新造の美のるや禿(かむろ)たちが部屋を後にし、みつと国芳が月明かりだけの部屋に二人きりになった。
気まずさなどという生易しいものではなかった。
みつを構成するすべての輪郭が、男の差し向ける犀利(さいり)な視線によって丹念に正確に捉えられ、なぞられている。
押さえつけられているわけでもない。
しかし蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように、みつは身動きひとつ出来ず声ひとつ立てる事が出来ない。
逃げ出したい。
それなのに、ぴくりとも身体が動かない。
(あたしの身体は、国芳はんに完全に捕らえられてしまった・・・・・・)
物語の中の妖術のように、みつの身体もみつの心も、もしかするとこの部屋の空間すらも、この瞬間、歌川国芳という絵師の手中であった。
(いいえ、きっとそうじゃなくて)、
思い返せば春、この部屋で二人は交わった。
その春に別れを告げ、夏が過ぎ、秋が巡り、それでもなおこの国芳という男の事を忘れられずにいる。
(あたしの心も身体もあの春からずっと、この人に捕らえられたままだったのね)・・・・・・
なおも、静謐な時間が流れる。
国芳が視線を紙に落とし夢中で描いている間、みつはちらりと男を見た。
色の見えないみつの目には、闇が闇であるほどに男の表情の細部まで良く見えた。
もともと不思議な愛嬌のある男だが、絵を描いている時の国芳は、別段に魅力があった。伏した目には仕事に向き合う男の厳しさを湛えつつ、くちもとは常に楽しげに微笑しているように見えた。
(ずるい人)
描かれているみつの肌膚がほのかに上気している事も知らず、少年のように夢中になれる国芳が、羨ましくもあり憎らしくもあった。
そういう二人の隙間を、窓の外の松虫の音と、風がどこからか運んで来る清掻だけが埋める。
しばらくして、国芳が矢立を置いた。
「描けやした」
「もう?」
何しろ四半時もかからない、ほんのわずかな間である。
「あい、まだ画稿ですから」
国芳は早くも引き揚げる用意を済ませて立ちあがった。
「なら、わっちゃア帰りやす」
「待って」
思わずみつは手を伸ばした。
男は立ち止まり、一瞬振り返った。
この日はじめて、まともに二人の視線が絡んだ。
みつは消え入りそうにかぼそく言った。
「ずっと、ここで会いたかった」・・・・・・
言葉を受けた国芳は、驚いたようにその場に固まった。
その瞳は、漆黒の空に浮かぶ天の河のようだった。
男は、しばらくしてかすかに切なく微笑した。
「・・・・・・やっと、会えた」
震える唇でそれだけ絞り出し、国芳はくるりと背を向け部屋から去って行った。
それで、みつにもようやく分かった。
国芳も、冷静などではなかったのだと。
必死に、無我夢中で絵に没入する事で、ようやく自分を保っていたのだと。
国芳に解かれた帯を直しもせずにしばらく茫然と佇んでいたみつの元へ、酔った佐吉と近江屋が様子を窺いに入ってきた。
「そろそろ描けたかア?」
「って、兄さんが居ねえ!」
慌てる佐吉に、
「・・・・・・帰りんした」
みつが、ぽつりと答えた。
恐らく引き留められるのを恐れて二人に声を掛けずに辞去したのだろう。
「嘘だろう」
近江屋は開いた口が塞がらない様子であった。
「花魁、近江屋さん、ほんにすいやせん。兄さんは仕事は疎かにしねえ人です。それだけは本当だ。絵は必ず完成させて、後の月にゃア花魁にも見せられるよう準備して来やすから・・・・・・!」
佐吉は真っ青になって平謝りしたが、みつは微笑して頷いただけだった。
その目に浮かんだ涙とちょうど同じような綺麗な月が、窓の外の空に浮かんでいた。
画像 歌川広重「月に兎」ボストン美術館蔵
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