織田信長はいい人? 歴史再発見「日本の偉人」仰天真実

日刊大衆

織田信長はいい人? 歴史再発見「日本の偉人」仰天真実

 新発見の資料、進歩する分析…これまでの固定観念が覆される偉人たちの意外な一面を見よ!

 教科書や時代劇などで、歴史愛好家ならずとも多くの人が触れてきたであろう「ニッポンの偉人」たち。歴史というからには、その業績や逸話は確固たる、疑う余地のないものだと思っている人も多いだろう。「しかし、現在でも多くの研究者が常に資料や文献にあたりながら研究を進めており、我々が学校で習ったのと定説がまるっきり変わったものもあるんです」(歴史ライターの幡ヶ谷純氏)

 たとえば、現在使われている歴史の教科書を見てみると「聖徳太子は実在しなかった」と言われているし、「1192(いい国)作ろう」と習わされてきた鎌倉幕府の創設年は、今では「1185(いい箱)作ろう」と、7年も遡っている。

 また、新説とは別に、研究の結果、人物の評価が一変しつつある例もある。その代表は、誰あろう、日本史上最大のスーパースター・織田信長だ。南蛮趣味の甲冑に身を包んで自ら「第六天魔王」と称し、古臭い常識を躊躇なく破壊する戦国の革命児。長らく、そう語られてきた信長だが、近年の研究成果から垣間見える人物像は、それとはかけ離れたものだ。「信長は、朝廷や寺社など、既存の権威に対して非常に気を遣う人だったことが分かっています。皇居の修理や皇太子の元服費用を負担し、困窮する公家たちの借金をチャラにしたりと、常に尊重していますね。一方、対立したといわれる寺社勢力に関しても、既得権益を守るために一揆を主導して歯向かった本願寺との戦いが有名になっただけで、他の寺社はむしろ手厚く保護し、人心の安定に役立てています」(前同)

 悪名高い比叡山延暦寺の焼き討ちにも、実は信長自身は慎重だったという。「敵対勢力をかくまったということで火はかけましたが、よく言う抜き打ちでの皆殺しではなく、1年以上前に予告し、威嚇程度にいくつかの建物を焼いただけ。このときは、むしろ家臣の明智光秀のほうがイケイケだったようです」(前同)

 比叡山焼き討ち後、その所領の多くは“実行犯”光秀のものとなったが、光秀は延暦寺に残された領地まで横領し、信長に「返してあげなさい」と命じられたりもしている。「クレイジーな主君についていけず、本能寺で反旗を翻した“良識の人”として描かれることも多い光秀ですが、実はかなりしたたかでクセのある人物だったようです。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は、こうした最新の研究を反映しているらしく、楽しみですね」(歴史専門誌記者)

■徳川家康、実は派手好き

 さて、その信長や、後を継いだ豊臣秀吉の築いた天下を完成させたのが、徳川家康。ド派手な2人に比べると、家康は質実剛健で地味な印象があるだろう。「しかし、それは天下を取るまでのこと。ガマンを重ねて天下人となった家康は、信長の安土城、そして秀吉の大坂城をはるかに凌ぐ城を築いたんです」(前同)

 それは、家康が幼少期を過ごした駿河(現在の静岡県)に築いた駿府城だ。「征夷大将軍の座を2代秀忠に譲り“大御所”としてこの城に入った家康は、掘割を整備し、駿河湾から船で城郭内に入れるように大工事を敢行。天守閣の土台である天守台は、西辺約68メートル、北辺約61メートルで、江戸城の天守台(西辺約45メートル、北辺約41メートル)を大幅に上回る巨城だったことが、県の発掘調査で判明しました。天守閣は建造後に火事で焼失しましたが、残っていたら現在の静岡県庁の21階と同じ高さといわれています。外壁も白亜に輝いていたという、日本一ゴージャスな城ですね」(同)

 死後に建立された日光東照宮も、かなりの豪奢さであることを考えると、“実は派手好き”と言われてもうなずける気がする。

 その家康が打ち立てた徳川幕府の支配を終わらせた中心人物が、今年の大河ドラマ『西郷どん』の主人公・西郷隆盛(隆永)だ。がっしりした体格にクリクリの目、鷹揚な人格で誰からも愛された――そんな西郷どんをドラマでは鈴木亮平が好演しているが、その実像は、かなりの“危険人物”であったようだ。「武力で幕府を倒そうと考えた西郷は、朝廷から倒幕の密勅(密かな命令)を得て、幕府の威信を地に落とすため、江戸で破壊・撹乱工作を行いました。のちに赤報隊を結成する相楽総三に命じて、江戸市中で放火や強盗、ときに辻斬りなどを組織的に行い、世間を不安に陥れたんです」(前出の幡ヶ谷氏)

 だが、武力倒幕の動きを察した15代将軍の徳川慶喜は、いち早く幕府の権力を朝廷に返還。いわゆる“大政奉還”によって戦禍を避ける英断を下し、倒幕の密勅も取り消された。「しかし、西郷はさらなる破壊工作を開始。江戸の薩摩藩邸に500人近い浪士を集め、略奪や放火活動を加速させます。幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人などが標的でしたが、最終的には薩摩と関係のない盗賊や辻斬りなども便乗し、江戸は騒乱状態になったんです」(前同)

 幕府側の庄内藩邸にも銃弾が撃ち込まれ、もはや無法地帯と化した江戸。テロ行為の数々を見かねた幕府側は犯人の引き渡しを求めたが、薩摩藩は拒否する。1868年1月18日、ついに幕府側諸藩は薩摩藩邸を焼き討ち。大規模な戦闘となり、薩摩藩士や浪士が64人、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩が2人の死者を出す惨事となった。「しかし、これは西郷の策でした。挑発に乗った幕府側に先に手を出させ、武力倒幕の口実ができたことで、戊辰戦争へと日本を引きずり込んだんです」(前同)

 戦争の結果は周知の通りだが、戦後の会津などへの処置は苛烈を極めたのに対し、思惑通りに戦争の火蓋を切ってくれた庄内藩に対しては、西郷はやけに寛大に接し、ほぼ無罪放免。「そのため、庄内では仇敵のはずの西郷が、やたら敬愛されるようになり、西郷の言葉を記した『西郷南州翁遺訓』が庄内藩士によってまとめられ、『南州神社』という西郷を祀った神社が建ったほど。洗脳かと思うほど敵をコロッと味方にしてしまうあたり、単なる人格者ではない底知れなさというか、恐ろしさを感じますね」(歴史専門誌記者)

■戦国武将の上杉謙信は270億円もの黄金を…

 単なる人格者ではないのは、戦国時代随一の戦上手にして“義将”として知られる越後(現在の新潟県)の上杉謙信も同じ。その人格を表す有名なエピソードに「敵に塩を送る」というものがある。

 あるとき、信濃(現在の長野県)北部の領土を巡ってたびたび争った宿敵の武田信玄が、同盟国だった駿河の今川家、関東の北条家と敵対関係となり、両国からの塩の輸入が止まった。信玄の領地・甲斐(現在の山梨県)には海がなく、塩が採れない。民はさぞかし困っているだろう――と思った謙信が、武田領に塩を送ったという美談だ。

「ですが、当然、そう単純な話ではありません。謙信は武勇に優れる一方、非常に商才もあった人物。直江津や酒田など領内の貿易港で関税を徴収したり、衣類の材料になる海藻や、上質な麻糸で作った越後上布という布を海路で京の都に輸出して大儲け。死ぬまでに2万7000両(約270億円)以上の黄金を貯め込んでいます。そんな彼が、塩不足で困っている=塩の値段が上がっている隣国を見過ごすはずはないですよね」(新潟県の郷土史家)

 謙信は、領内の商人に「どんどん塩を売れ」と、甲斐との取引を奨励。自分たちも儲かれば敵方にも感謝され、さらに義将として名も上がるという“一石三鳥”を手にしたのだ。

 そんな謙信と関東の覇権を巡って激しく争った北条家の祖・北条早雲は、一介の素浪人から身を起こして一国を手に入れた、戦国時代の幕開けを象徴する人物として語り継がれてきた。「しかし、今はこの説は否定されています。早雲の本名は、伊勢盛時。父親は室町幕府の第8代将軍・足利義政と面会者を取り次ぐ“申次衆”という重要な役職についていました。早雲自身も9代将軍の申次衆になっており、相当な身分だったんです」(幡ヶ谷氏)

 やがて、応仁の乱の際に上洛した今川家の当主・今川義忠が姉と結婚。のち、その縁で駿河へと向かう。

「その後、足利家の内紛に乗じて伊豆一国に勢力を持ち、それを足がかりに関東を制覇していったのは事実ですが、これも早雲の独力というよりは、中央政界や今川家と連携を取りながらのもの。さすがに、ただの素浪人では、この動きは取れなかったでしょう」(前同)

 低い身分から成り上がったといえば秀吉と早雲というイメージも強いが、現実は甘くないということか。

■初代内閣総理大臣・伊藤博文は「ほうき」の異名

 しかし、明治の元勲にも、そういう人物はいた。いわずと知れた初代内閣総理大臣・伊藤博文だ。

 長州の貧農の子として生まれた伊藤は、父が下級足軽の家に養子に入り、武士として運が開いた。吉田松陰の弟子となって頭角を現し、やがてイギリス留学などを経て維新の志士に。西郷や大久保利通亡き後の明治政府を支え、帝国議会や大日本帝国憲法などの創設に貢献した。

「その偉業を示すのは“初代”の肩書きの多さ。初代兵庫県令(知事)、日本初の政党・立憲政友会の初代総裁、初代内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監……。日本の近代は、伊藤なしには成り立たなかったと言えますね」(専門誌記者)

 68歳で暗殺されるまで忙しく国内外を駆け回った伊藤だが、そのエネルギーは“アチラ”のほうでも炸裂。「伊藤は、とにかく好色で有名。イギリス留学中に色街に入り浸って大問題になり、総理大臣でありながら人妻に関係を迫ったり、日清戦争の際、広島に設けた大本営でも芸者遊び。掃いて捨てるほど女がいるという意味で、“ほうき”の異名を取りました」(前同)

 そんな伊藤には、もう一つ“初代”の勲章がある。「吉原で遊んだ帰り、馬車に乗ろうとする伊藤を見送りに来た別の芸者をすっかり気に入ってしまって、そのまま馬車に乗せ、一晩中、馬を走らせながら車内で……。記録に残っている中では、車内での日本初。明治天皇も、これには呆れ果て“いい加減にせよ”と叱ったとか(笑)」(同)

 知れば知るほど面白い、ニッポンの偉人たちの“真の姿”。次は、どんなエピソードが明らかになるのか。今後の研究を待ちたい。

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