両者の耳と鼻を削ぐ!?戦国時代はケンカも過激、武田信玄「喧嘩両成敗」の実例と精神 (2/3ページ)

Japaaan

殺すまでもないと言うなら、そもそも喧嘩をしてはならない」

「今回、寺川が赤口関を暫く取り押さえていたのは、誰かになだめて貰おうとする甘え=不覚である」

「一方の赤口関も、反撃する余裕がありながら脇差を抜かなかった(=寺川を殺さなかった)のは、取り押さえられたことを恥と思わず、その内誰かが仲裁してくれるだろう、という不覚である」

「お前たちが武士として脇差を差すのは何の為か。こんな不心得な者を許しては武田家の恥であるから、両名共に処断せよ」

常に脇差を差していること、いざ有事にはそれを抜かねばならないこと、そして何より、「軽々に(相手を殺す覚悟なしに)抜いてはならない」こと。

そうした「武士の心得」を、彼らは「脇差心」と呼び、日々胆に銘じていました。

結局、赤口関と寺川は雁坂峠(現:国道140号線・山梨県山梨市と埼玉県秩父市の境)を越えた辺りで「怨みを残しては後日の災い」とばかり、現場判断で斬られたそうです。耳と鼻は信玄公の命令通り削がれている筈なのに、首まで斬られては削がれ損ですね。

かくして定められた「喧嘩両成敗」

さて、そんな事があって、その年(天文十六年)の6月に信玄公の定めた甲州法度の第十七条には「喧嘩両成敗」の項が盛り込まれた、と『続武将感状記』は伝えます。

喧嘩之事不及是非可加成敗但雖取懸於令堪忍之輩者不可處罪科
(意訳:喧嘩した者は理由を問わず成敗=処罰せよ。

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