両者の耳と鼻を削ぐ!?戦国時代はケンカも過激、武田信玄「喧嘩両成敗」の実例と精神 (1/3ページ)
喧嘩両成敗。兄弟や友達と喧嘩した時、両親や先生の口からよく聞かされました。「喧嘩をした者は、理由を問わず両方(あるいは全員)を罰する」
その単純明快な理屈には、有無を言わさぬ力強さを感じますが、その発祥の一つに武田信玄公の発した「甲州法度」が挙げられます。今回は戦国時代、武田家中で起きた実例を元に「喧嘩両成敗」が制定されるに至った経緯を紹介したいと思います。
取っ組み合いで耳と鼻を!?時は天文十六(1547)年、武田家中に、関東牢人の赤口関(あこうぜき)左門と、京方牢人の寺川四郎左衛門という者が仕えていました。互いに同じ新参衆という事で日ごろ親しくしていましたが、ある時、些細なことから口論になり、やがて取っ組み合いの喧嘩に発展。
最初は寺川が赤口関を取り押さえて優勢だったものの、赤口関が繰り出した必死の反撃で逆転勝利したのですが、両者共に一度も刀(脇差)を抜くことはありませんでした。
この一件は武田家中の噂となり、ついに信玄公の耳に入ります。赤口関と寺川の両名を呼び出し、現場を見ていた家臣たちから状況を聞き取った信玄公は、
「双方ともに『脇差心』なし」
と断じ、両者共に「耳と鼻を削いだ上で追放」という判決を下しました。
取っ組み合いの喧嘩で、なぜ信玄公はそこまでしたのでしょうか?
やるならとことん・脇差心とは?信玄公が取っ組み合いの喧嘩に対して、耳と鼻を削ぐという苛烈な刑罰を課したのは、こういう理由からでした。
「武士の喧嘩は、子供や町人のそれとは違い、一度やる以上は刀を抜かねば(=相手を殺さねば)ならない。
